「タトゥー・セラピー」
四月三〇日(金)
タトゥーというカタカナが日本に浮上して10年ほどは経つのだろうか。
コザ(沖縄市)によく出かけるから、街にタトゥー・ショップはよく見かける。米兵がたくさんいるからだ。彼らはお土産気分で、あるいは戦場でバラバラ死体になっても自分だと分るように各パーツの肌にシルシを入れる。
コザでは、三線を爪弾きながら島の話をしていた飲み屋の知り合いの職業が彫師…こんなことも普通である。だいたいが昔からポップ・ミュージックを商いにしているのだから、その御親戚ともいえる刺青(しせい/いれずみ)、あるいは海外からやってきた言葉「tattoo」の文化は少しは知っているつもりだった。国文学者の松田修先生が書いた『刺青・生・死 逆光の日本美』(平凡社選書12/しせい・せい・し、と読む)も凄かった。先生とは、切れ者学者―バカ編集者としてお付合いさせもらったこともあり、特にホモセクシュアルな観点から当文化のヒミツの快楽の内実を覗いたこともある。そんなこんなんだから、あれ? 知らないうちにどうしてこんなに表立って刺青が…いえタトゥーが、世間を闊歩しているの? という感じなのだ。
横浜でPAO(ウダPAOマサアキ)さんと会った。彼は『タトゥー・セラピー』を昨年(2009年)末に出版した人物である。ハマのレゲエ集団として知られる
Fire Ballのロゴを描いた人でもある。
『タトゥー・セラピー』は彫師の立場から現在のタトゥーのありかたに分析を加えたとてもgoodなbookで、何よりまるで理屈ぽくなく、自分自身の過去に、顧客の嗜好に対しても「笑い」の視線を投げかけているところに、彼の知性というかタフな根性をぼくは感じ取ったのだった。本には悩める人たちに向けてのいいメッセージが散らばっている。いわく…、
刺青を入れたことだけで、人が変われるわけがない(自立という厳しさ)。
刺青を彫ってるなら、ゴミ拾いくらいはしなよ(カッコよさとは)。
…と。彼はタトゥーばりばりの仲間たちと人の集まる場所へ出かけて実際に清掃作業をやっているのだった。
「刺青〜タトゥー」とは、入れるほうも、施術を行なうほうも、重い荷物を背負うことでもある。セラピーとは治療なり治癒術をさす言葉だが、PAOさんは別れ際にこう言った。「入れてない人のほうが、どれほどオカしいか。狂ってるか。毎日の新聞を見ればわかるでしょ。変な事件を起こしている人の大半は、入れてない人ですよ。俺、わかるもん」
セラピー、ねぇ。
*PAOさんたち現在のタトゥー文化の渦中いる人たちを、現在取材中。
PAOさんもお参りするという「役行者窟」
(成田山横浜別院・延命院=野毛山不動尊)