「篠原有司男」
十二月八日(土)
夕暮れ、京橋のアート・ギャラリーで篠原夫妻と会った。田中信太郎さんもそばにいて、富山県高岡の銘酒で乾杯!
なぜって篠原さんの奥さんである、則子さんとは三十六年ぶりの再会なのだった。
有司男さんはヨーコ・オノさんなどと一緒に前衛芸術をやってきた人で、少し前に歌手の福山雅治さんと「ボクシング・ペインティング」(ポカリスエット)のCMに出てた。ウシオっていうから、ギュウちゃん、って周囲には呼ばれているんだって。田中信太郎さんもお同じ前衛系のアーティストだ。
ウシさんはとっても気さくで元気一杯な方だった。国宝の「鳥獣戯画、観るか?」っていうから、(今、六本木で特別展やってる)「サントリー美術館から盗んできちゃぁ、いかんですよ」と応えたら、「ちがう違う! オレが買ったんだよ!」と叫んだかと思ったら、画廊の奥から「国宝」を持ち出してきて、かの有名な甲の巻をどーんと画廊のフロアへ投げ出すのだった。どーん!
「河合谷小」
十二月九日(日)
で、どーんなあと、則子さんと一緒に近くの沖縄料理屋でさらなる乾杯サビラをしたわけだが、則子さんは高校卒業してからすぐにニューヨークへアート修行へ出かけて、だが、たちまちのうちに同地にいた有司男さんの「毒牙」にかかってしまったのだ。
で二人は、どこに住んでたのさ、ときけば、なんとブルックリンの橋のたもと。
「ということは、すっげー場所だったでしょ。オレ、その場所、ラップの現地取材で行ってるもの」
「ものすごい場所だった。でも今は高級な地区に様変わりしてるから、今はまったく大丈夫。9・11から、ニューヨークはずいぶん変ったの」
ぼくがサルサだ、いやラップだと、わっさわさしてた頃に、そのほぼ同じ場所で、アートで格闘してた同級生がいたなんて、すごく不思議。また会おうね! と東京の夜、彼女とお別れした。
*
則子さんに会う数時間前、ぼくは河合谷(かわいだに)にいた。河合谷は富山県に隣接する石川県の山間の地区だ。
河合谷には小学校があって、来年の三月に閉校が決定している。その経緯を、地域の人たちから話をきいたわけだが、まぁこれが驚くというか、「シカケ」を作った者たちの悪意のほどを教えてもらったのだ。日本のどこかの、ごく小さな地域の、ごく小さな(?)異変の中にも、ニッポンの腐敗が凝縮されている。
河合谷へ行ったのも、その前に、石川の地域政治のダメさかげんを記事にしたのがきっかけだった。というのも、記事の影響力はそれなりに大きかったようで、地域のドンが国政へ打って出るときに「疫病神」の一つとなったのだそうだ。おかげでドンさんは落選。河合谷小の閉校に反対している人たちが言うには、ぼくの記事はちゃんと援護射撃を果たしたのだそうだ。
だからこそ今、ドンさま、そして配下の者たちの怒りは、小さいけど、由緒ある歴史的名校にも向けられているのである。