「えべす」
十一月二十七日(火)
大阪へ日帰りした。
美空ひばりの芸能活動から彼女の孤独、苦悩を読み解く、といった内容で二時間しゃべった。会場には二百人ほどの方々が来場し満杯状態。それでみなさんのお顔をちょっと見たらひばりが好きそうで、「これはしゃべりやすそうだ」と思ったら、まったくそのとおりだった。だからしゃべりまくった。ひばりの歌手としてのすごさは語るまでもないけれども、その五十と二年のライフを見ると「キツかっただろうなー」と想像するに充分なできごとがたくさんあるのだった。ヒットに恵まれなかった七十年代から、後見人のような田岡の親分(山口組三代目)が亡くなってからの八十年代というのは「もう一人のひばり」であるお母さんや(ふできな)弟たち、仲のよかった江利チエミまでもが次々にあの世へと旅立って彼女の酒量はめだって増えていった。大腿骨のつけ根(骨頭)が壊死になってしまい、しかも重度の肝硬変を同時に患っているのにもかかわらず「平然」とライブをこなした晩年だった。恐ろしいほどの痛みを隠して、あの「お嬢フェイス」で堂々と笑っていた
美空ひばりの当時を想像するに、この人は本当に孤独だったんだろうなと思った。会場の(おそらく)熱烈なファンであろうお母さんたちも、ワシの発言にいちいちうなずいておられて、(…ということは)みんなワシのようにベチャベチャとしゃべらないだけで心では分かってらっしゃったんだなと思うと、ちょい胸があつくなるのだった。ひばりは八十六年暮れに上杉昌也という金持ちビジネスマンとハワイで会った(見ず知らずのひばりから突然、会いたいという連絡が入ったのだ)。上杉さんは有名人からのお誘いだからってんで、いやいや出かけていったのだけれど、いっしゅんの内にうちとけて、ひばりは会ったばかりの上杉さんに自分の苦悩を泣きながらぶちまけたのだった。そしてその晩から、ひばりは上杉さんのハワイの家に泊まってしまったってんだから、やっぱマジに孤独だったんだろうなー、ひばりさんは。ちなみに上杉さんの異母兄は上杉佐一郎という方で、佐一郎さんはかつて
部落解放同盟中央執行委員長だった人物。会場でも話をしたのだが、差別に苦悩し差別と闘う仲間たちのことを「きょうだい」とヒラガナで書き、それは言わばアメリカ黒人の「ブラザーズ&シスターズ」の日本バージョンなんだけど、ひばりは上杉さんを見るなり「きょうだい」だと信じたんだろうな。だからいっしゅんのうちに家族同様の付き合いとなった。おそらくこういうところも
美空ひばりの個性であり才能なのだろう。ひばりは、すっぱだかになって、号泣できる人をずっとさがしていた。
でもひばりの孤独はしぼむことはなく、当時、大きなニュースとなったインチキ治療師によるインチキ治療に彼女は手を出し死期をはやめたのだった。ほんとうに残念なことだった。
…二時間のしゃべくりが終わって、わざわざ淡路島から来てくれた谷本さんと戎(えびす)さんの三人でビールした。初めて会ったエベっさんは、なんと淡路島で三線をやっているのだという。しかも徒党を組んで! これは聞き捨てならぬと、みんなで友だちしような、ということになった。そして、次にエベっさんと会うときは「決闘三線島・淡路の段」になるから、そのためにちょっと気の早い乾杯、もういっぱい、なオーサカなのだった。
amazon-
CD『祈り/美空 ひばり』(軍歌を歌う名盤、「一本の鉛筆」も収録)
amazon-
DVD『東京キッド』(少女時代の悶絶の音楽映画)