「かみさま」
十月二十七日(土)
家のパソコンでDVDを見ながらご飯を食べた。珍しく箸を持つ手がとまった。嘉手苅さんの『唄と語り』(M&Iカンパニー)が、あまりにも凄かったから。
冒頭は「時代の流れ」だ。道端に立ってうたっているカディカルの、酒にでも酔っているのだろうか、三線は間違えるし、歌うこともちょっと投げているような、雰囲気だった。カディカルさんの代表曲だから、高嶺剛監督としてはそういうレベルではあるけれども、フィルムの最初に持ってこざるをえなかった…と、…いいや『ウンタマギルー』を撮った高嶺がそんないいかげんな判断をするわけがない…きっと、この姿こそがカディカルなんだというショットなんだ、と思いなおした。だから箸が止まった。
カディカルは神である、と言い放ったのは、ルポライターの竹中労という人物だった。ケンカ竹中らしい、凄いコトバだけど、ぼくも今、このDVDを見て、かみさまを見ている気分になった。そしてしだいに直視できなくなった。だってカディカルさんがまぶしいから。ぼくの言ってるかみさま…沖縄のカミとは先祖のことだ。このウチナーの信仰が好き。畏敬の対象に何も無理がないから。
嘉手苅林昌はご先祖、すなわち古い沖縄その姿なのだ。
しかも、ぎりぎりの時点で、今生きているウチナーンチュが実感として思い出せる「古さ」。その古い沖縄(ンカシ・ウチナー)が生きて、そこで歌っているのだ。おエラいさんでもなんでもない、大衆そのもののだった人がかもし出す「あの頃」という古さ。
嘉手苅林昌がどうして素晴らしいのか、年寄のウチナーンチュはなかなかうまくに語ることができない。歌の引き出しの多さ、即興性、唯一無二のボーカル・スタイル…こういうことは誰でも指摘できるのだが、その向こうにあるカディカル自身が語れない。
それがなぜなのかこのDVDを見てぼくはわかった。それは自分を語ることになるからだ。自分と、自分と確実につながっている先祖を、そして先祖たちが生きた古い沖縄を語ることになるからだ。カディカルの三線プレイがどうのこうのって、関係ない。私たちは過去とつながっていることを全身で表わすことのできる人がカディカルさんだから。だから彼を知っているオジイ、オバアが、カディカルさんへのコメントを求められて微笑むことしかできないというのは正しいことなのね。恥ずかしいし、胸がたかまってハートがドンドンになっちゃうし、そして、失ったものいかに大きいかが思いだされて悲しいでしょ…そんなこんなを、歌でドーンと報せることのできる沖縄音楽史上、おそらく唯一のシンガーがこの人だった。
すべてが変ってしまったという彼のお母さんが作った「廃藩ぬサムレー」を小さい頃から愛したカディカルさんだったけど、やっぱりなーとこのDVDが語りかけてくる。彼の有名な持ち歌の一つ「戦友」(かの有名な軍歌のカディカル・バージョン)を、一緒に歌ってると、もぅたまんねー。