「土台」
十月二十日(土)
M&Iカンパニーの阿部君の家で目覚めて、一杯二杯とお水をもらって、よろっよろと快晴の朝の町を歩いて電車に乗った。
昨晩、阿部君と一杯二杯…とお酒を飲んだとき、お互い沖縄が好きな同士だから、思わずぼくは今の沖縄のパワーダウン化のイメージを彼に伝えた。九月二十九日、沖縄では十一万六千人もの人たちが集まって「教科書検定意見撤回を求める県民大会」という大抗議が行なわれた。それが政府を(表向きは)動かしたかっこうになっている。十一万六千人。すごい…ことではあるが、それでも沖縄の現状は変らない。「土台」が動いていないからだ。土台とは、沖縄の米軍支配、つまり姿かたちのかわった沖縄の植民地化、ということなんだけど、島民への日本政府からの贈り物、いわゆる「アメとムチ」政策がこれほど長く続くと、甘いアメの部分で人はどうしても腰砕けになってキツいムチの部分に目をつむるなりガマンしたりする。アメとムチ。沖縄ではその効果が出てしまっている。基地があるのはしようがない、辺野古問題はしようがない…という気持ちは、ちょっと前の県知事選挙の結果によく表われていたと思う(今、流れは少し変ったかに見えるけど)。
さてこれをどうしたらいいか…なんだけど、ミッドナイト・イン・オーサカで長話をした照屋林賢さんが面白いことを言っていた。沖縄には基地があるけど、ゲンパツはないんだよね、って。ヤバいものの受け持ち分担。受け持つところは、田舎であったり、(東京などよりはずっと)金銭的に貧しい処だったり、ちょっとイメージをめぐらすと日本という国家の構造が見えてくる。北陸電力(本社、富山県)のゲンパツが能登(石川県)にあって、自分の処にはない。新潟のゲンパツは東京でしょ。福井県のゲンパツは関西でしょ。発電所がある場所はみんな風光明媚な田舎で、魚がばつぐんに美味い過疎タウンなの。そこへゼニがドーンと落ちてくる。そして報道にあるように「彼ら」はずっと大問題を隠し続けてきた。そして、沖縄にゲンパツはなくとも劣化ウラン弾ほかたくさんのヤバい爆弾が存在するのはもう常識だ。基地やゲンパツはかんけいねーや、と思っていること自体が「彼ら」の「術中」にはまっている。さてこれをどうしたらいいか。亀戸の空を窓越しに、車中で考えている。
「いてーほど」
十月二十一日(日)
まいにちのように「老、上、老、尺」という指遣いを練習しているのだ。でも上手いぐあいにはいきゃーせん。でもこれがずいぶん重要なんだということはすこしずつわかってくる。でもやっぱりうまくいかないんだなーこれがね。でもまいにちのように弦を押えているせいで、指先が硬くなってきて、ひとさしゆびのかんせつがいたくて、そういう変化はかんじるのだけどかんじんの歌三線がじょーたつしてんのやらしてないのやら。
「安里屋ユンタ」「固み節」「七月エイサーまちかんてぃ」「安波節」…ほぅなるほど、こういうふうにやるんか、とはわかっても、どれ一つ「まとも」に歌い弾くことができない。でも、わし、がんばるもんねー、なのだ。照屋林賢さんが、大阪で、ぼくに向かって幼稚園児を見つめるようなまなざしで「アマチュアがいちばんいいと思いますよ」なんて言うから、「んなこたぁ、こちとら、いてーほどわかっとるわい」とムキになっているアタシなのであった。でもムキになったとして、その先に何がまっていてくれるのだろうか? それもわからない。見えない。