「赤い木」
十月十二日(金)
金木犀の香る季節になった。気多神社へ向かう坂道にも、あさ子さんの手になる家の生花のまわりにもあの甘い甘い空気が、あちらこちらにかたまって落ちている。
でも匂いが強いからお茶の花には向かないんだって。
季節感を意識するようになったのも、おそらく沖縄と出会ってからのはずだ。「おそらく」とことわるのは、沖縄音楽の先に浪曲とか河内音頭とかが好きになっていたからで、こういった歴史の根が太い音曲とつきあうようになるとそれなりに四季や花鳥風月を意識せざるをえないのだ。歌詞の中だけじゃなく、たとえば演者が着ている浴衣のデザインなどにしても、ちゃんとワケがあるから面白くなってくる。こんな経験を積み重ねているうちに、ぼくの中へオキナワが入ってきてくれて、さらにさらに、そして、沖縄を経て本土の古い文化風習にも興味が向くようになった。沖縄の言葉のみやびは日本の古語にあるのだと照屋林助さんに長く教えられて、さらにニッポンの古層文化が気になっていったのだ。今、ガンで闘病生活をしている筑紫哲也さんと林助さんとで沖縄の本を作ったときも、筑紫さんは言っていたけど、彼が沖縄の記者時代に政治から文化まで全部取材して回るうちに、世界を見る目をやしなうことができたんだって。彼はそのことにとても感謝していて、だからこそ筑紫さんは今も沖縄シンパなんだよね。開眼ってことなんだろう。ぼくも似たようなところがあるし、そのトビラが島の歌、その演者たちだった。だから沖縄に四季がないなんて、きっとそれはただの一般論であって、ちょっとちがうんだけどなーと思う。思い出の一つだけど、登川誠仁さんと粟国島(あぐにじま)の港を散歩したときがあった。それは映画『ナビィの恋』でご一緒したとき、秋から冬にむかう肌寒い日の朝だった。師が遠くの森をゆび指して「もう少ししたら、あの木が赤く染まるんだ」と言った。沖縄本島からちょっと離れた粟国島。季節が変り海が荒れはじめ潮の飛沫が島の木々を襲う。それが樹木に赤みを与える。誠仁先生はそれが島の冬の訪れなのだと教えてくれた。見る目、感じる心なんだよね、四季って。登川誠仁さんはそう伝えようとしていたのだろう。
その日のアグニの、誠仁先生といる港の、ちょっと寒っちい感じ。同じ時節、北陸に金木犀が香る、その季節。また金木犀といってもそれは東京にもあるわけで、でも北陸とは季節(感)がまた違うのね。そんな違いを歌から感じるセンスを養うことができたらいいなと思う。来週の金曜は九月九日、菊酒の日と暦にある。