「秋霧」
九月二十一日(金)
早朝の江戸川に霧が立っていた。春は霞、こいつは秋霧ってやつだろうか。川辺に砂利道がずっと続いていて、自転車の荷台に箱をしばりつけた男性が川霧の下でえっちらおっちら背をかがめながら前に進んでいた。あの砂利道は重荷と一緒だと沈むから脚力に自身のない人には少しあぶないんだ。
ぼくは町と川辺を隔てる土手の上から、輪郭もおぼろげなその薄い灰色の世界を見下ろしていた。まだ陽は川の向こうに顔を見せていなくて、ウォーキングの人たちもこれから。自転車のおじさんを目で追いながら「安波節」を口ずさんだ。
都会から遠い安波の高台から、歌の主人公が、眼下に広がるやんばるの海を見ている。高台は、心が晴れるようなところだとその人は語りだす。その高台の奥にある松の木陰は、(二人が)体を休めるスペシャル・スポットだとも。
…つまるところ「安波節」とは、ヤマトの歌垣、島では毛遊びの歌なんだけど、歌がかもす情緒は現代でイメージするところの「集団的ダンス&ミュージック+ラブ・アフェア」とはえらく違う。
以前、いにしえの貴族が安波に桃源郷を夢見たのだと、触れたことがあるが、それにしても「安波節」の静けさは何を物語るのか。それがわからない。もしかしたら歌舞や恋愛をテーマにしているようでいて、作者の関心はそこにはなく、実は静けさそのものを描こうとしたかったのではないか、とすら思うのだ。秋の霧を見ながらね。琉球古典音楽は、この静けさと、桃源郷をテーマとして結びつけたところに一つの特徴があるが、それってヤマトのみやび(雅)なるものと無関係ではないだろう。能と組踊…これは偉い先生たちの御本にも出てきます。でもぼくの感心はちょっと別なのね。「安波節」に代表される歌の静けさって、何色なのか? ということ。秋霧のあの自転車のおじさんは薄い灰色に染められてミニ水墨画の世界。「安波節」はこの情緒と合うようでいて、歌うと、あるいは三線の手を思い出すと、微妙に似合わないのだ。琉球古典音楽って静かなんだけど、淡く単一な色合いの向こうに、複数の色が光っている(ように感じる)。「かぎやで風節」がまさにそれでしょ。それが何なのか。ナゼなのか。突き止めてみたい。秋顔の江戸川。
「ユンタ」
九月二十二日(土)
本日、大阪市が運営している難波市民学習センターで発表する詞だ。先週からセンターでは「あなたの思いや願いを『うた』に」と題して、人権に関する4回のセミナーが開かれている。ぼくはその講師。「りん」といっしょに、作った一つ。
新説・ウチナーユンタ
作詞・藤田正、メロディ・安里屋ユンタ
さぁ 海はヤンバル 辺野古の浜辺
サーユイユイ
春夏秋冬 サンゴにジュゴン ○はるなつあきふゆ
まだ生きるぜ 死んだら神様よ
さぁ 空は嘉手納の ジェット機ゃ吼えて
サーユイユイ
ヘリは落ちても 支援はつづく
またイラクか アフガン テロリスト
さぁ 島は渡嘉敷 いちどはメンソーレ
サーユイユイ
「自決」は誰の手 おばぁはなみだ
まだ終わらぬ ウチナのいくさごと
さぁ 白のサンゴは 墓場のしるし
サーユイユイ
「長寿の邦」に メタボと自殺
また来てね ウチナや果報な島 ○かふぅ
(オリジナルの歌詞)
さぁ 沖縄よいとこ いちどはおいで
サーユイユイ
春夏秋冬 野山に花が咲く
マタ ハーリヌ ツィンダラ カヌシャマヨー
*(セミナー用メモ)新説・ウチナーユンタ:沖縄は大好きです。沖縄を知れば知るほど、沖縄は植民地だと思うし、それを許している日本(人)全体もアメリカから自立できない幼児のようだと感じます。愛するがゆえに(名曲に失礼かとも思ったのですが)、日本のウソが吹き出るオキナワの今を安里屋のメロディにたくしてみました。