「台風」
九月六日(木)
雨が降っている。外は大雨だ。ツブテのような細かな雨がいっせいに金属製の雨戸をぶっ叩いてミニ銃撃戦のような音を立てている。今から六〇年とちょっと前、沖縄に米軍がやってきた。この時の悲惨はたくさんの経験者が語り継いでおられるが、その中に、想像を絶するような逃げ惑いの場にあっても、私は何をさておいても三線を持って出たという逸話がいくつか残っている。たしか林助さんのオヤジさん、つまり林山先生も、大事な大事なソー(棹)が戦乱でなくならないようにずいぶん気を遣ったんだと、林助さんから教えられたことがある。三線は何を置いてもソーがカナメだから、ソーだけを持って出る。そんな人が少なからずいた。おそらくは士族の家系の人たちが多かったのだろう。この人たちにとっての三線はただ音が出る物体ではなく、私という存在の映し鏡であるという歴史性を持っているがゆえに、我が子や妻や(疎開の途中でつぶして食べる)ヤギさんたちの間にまじって…いや、彼らよりも一段格の高い、かみさんのようなものとして、川をわたりガマ(洞窟)に潜んだのだ。三線さまが、人さまと一緒にね。
ラジオでは「コト」が起きても慌てないようにとぼくらに注意をうながしている。大きな台風が関東を荒らしている。雨と風の音ばかりの夜更けに考える。もし、ラジオでいう「そのコト」がぼくの住む町で起きたなら、ぼくはぼくの三線くんをどうするのだろう。まだ名前も付けていない「君」を眺めながらぼくはツブテの音を聞いている。
「安波節」
九月七日(金)
安波(あは)という集落がある。ぼくは運転免許証を持たないから、この集落へ那覇からバスで行ったことがあると言うと、だいたいのウチナーンチュはしばし返す言葉を失う。本島南部の那覇から、まだ太陽が東から上って元気一杯の頃、北部の果てにあるような寂しい村へ向かう。とろとろとろとろ、乗り継いで、気が付けば日が暮れていた。ウチナーンチュの多くは公共バスなんかハナから相手にしていないし、ましてや北部・やんばるの、それも(いちおうカネと経済が動いている)東側から山を越えた西の過疎地域へバスを使うなんて…なんでー、しょーちゃん、あきさみよー、だろうなー。
でも我んは沖縄と知り合った最初の頃に、一人でやんばる(山原)に出かけたこと(むる寂しかったけどさー)、良かったと思ってる。なぜなら、このロンリーなやんばるが、なぜ古典的な舞台や歌にたくさん登場してくるのか、それが実感として得心できたからだ。
理由の一つが、寂しいことイッツセルフ、だった。そしてその寂しさを歴史的に見れば、都人(首里&那覇)からのカントリー・ライフに対する憧れであり、田舎に投げかけられた差別的な視線であり、貴族が遠い地・やんばるへ追われたウラミツラミの感情であったりするわけで、間違ってもやんばるそれ自体が本当にひどい場所であるかどうかとはまるで関係がないということも知った。かの登川誠仁さんのレパートリーにも「くんじゃんジントーヨー」というやんばるを切なく歌い上げる名曲があって、そこにも「(やんばるは)枯れ木島のようではございますが」というホロリとくる一言が用意されている。この、ホロリという甘酸っぱい感情の中に、すっごく長い沖縄の歴史が隠れているのね。
沖縄だけじゃない。たとえばイニシエのヤマトの貴族・文化人たちは、行ったことも見たこともない平泉やらの東北一体に憧れの「うた」を投げかけてきた。あるいは伊勢物語に登場する「在原業平らしき男」が東下りの途中、各地で「うた」を遺していく…という有名なオハナシなぞと島唄とをあわせて考える時、長い歴史の積み重ねの上に立つ歌、それは一筋縄では行かないが、それゆえの知的快楽、想像力をどんどん発展させてくれる大切なものということがわかってくる。
沖縄の歌のコンクールなんかに課題曲として登場する「安波節」も、一般には初心者向け、と言われてるけど、この簡素かつ美しいメロディは昨日今日のうちに、ポコンと生まれ出でたとは思えない磨き上げられた歴史を感じさせる。「あはぶし」とはもちろん、あのやんばるの安波が取材地、一種の桃源郷だ。都会と田舎とをロンリネスで結んだこの歌は、(琉球古典音楽の常として)お上品なしつらえの中に、かつての上流社会ではきっと味わえなかったであろう「ど田舎」の「自由恋愛(すなわち毛遊び)」をそっと歌い込むのであった。サミシー場所、ナーンにもない所、だけどうらやましい限りの愛の交歓があるぜ…と伝え聞く、やんばるの安波。私がお手本にしているよなは徹のDVDで、我が徹先生は、そんな安っぽい感情をいっさい表に出さずサラリと歌い終えてしまうところが、ニクい。アマちゃんは、ここでウナるぅぅ〜、となってしまうのがダメなの。だって「うくの松下や、寝なし所」なんて歌詞だから、(男女がアソビつかれちゃったりしたら)あの奥の松の木の下あたりでねウッフーン…というイメージでしょ、これ。でもだからといって、ヤボは禁止、なんですね。それが洗練。これは田舎をテーマとした都会人の歌なのだ。
でも、都会派といっても新内なんかの洗練とはまた違うんだよね。おそらく沖縄にヤボって感覚があるのかどうか……
とゴタクはいくらでも綴ることはできても、三線を抱えた両の手はあいも変わらずぼんやりとしたまんま。徹、一週間で何とかなると言ったくせに、責任取れよ。