知念大工
八月三一日(金)
林房が「これ持って行けよ」と言うので、一式もらった。
暑いコザの昼下がり、飛行場へ向かう前に、林房の姉貴の秀子さんが三線ケースの中へツメや替えの糸を入れてくれて…はい、どうぞ。林房作・知念大工モデルがぼくの手に渡った。照屋の親戚の安里さんが那覇空港まで送ってくれた。三線ケースという荷物が一つ増えただけのこと、なんだが、羽田へ向かう機内で「これ持って行けよ」の林房の気持ちを考えた。六本木のレコード店で彼の兄貴の林賢と出会って、そのあと父親の林助さんと旅に出て、コザの三線店にも出入りするようになって、考えればぼくと照屋家との付き合いは一八年ほどになる。今年の夏前には林房の初めての三線展が世田谷や石垣島など日本各地で開かれて、ぼくはチラシや世田谷の三日間を手伝った。林房は喜んでいたし、世話をしたぼくも嬉しかった。それだけのことだが、こういう関係って不思議だなとも思った。親戚でもない、仕事でもない、しかしもしかしたらさらに縁は深いのかも知れない、と思わせるオキナワ。
沖縄の大衆史の真ん中で活躍した林助さんと本を作ったりCDを出したり、ぼくはこの人からオキナワをずいぶんと教えてもらった。林助さんにしても、この偉い先生の一家にしても、照屋の誰もが、ご近所さんと付き合うかのように、ぼくへの視線を変えることは一度もなかった。林助さんが亡くなって、もうこれで俺の沖縄は終わるんだろうかと、感傷的になった時もあった。でも三線職人としてそろそろ名を成しつつある息子・林房が、「これ持って行けよ」と三線を渡した時、エニシは林助を根に、さらに続くのだという言葉なき言葉が楽器の「注意書き」のように貼り付けてあったのだと思った。
夜、アパートへ帰り知念大工に触れる。