1)クリスマス・ソングのモンスター、「ホワイト・クリスマス」:
クリスマスの歌となれば、近ごろの日本では、山下達郎の「クリスマス・イブ」やWham!(ワム!)の「ラスト・ クリスマス」といったところが定番中の定番でしょうか。
でも、「王道」…こんなたとえが適切かどうかはわかりませんが…は、やっぱりビング・クロスビーの「ホワイト・クロスビー」。
クリスマスの赤い帽子をかぶって笑っている、優しい白人のおじさん。そんなジャケットを見かけた方も多いでしょう。太平洋戦争が終わって、アメリカの習慣や文化が一気に日本へ流れ込んで来ましたが、クリスマスの大衆化と共に紹介されたのが、このビング・クロスビーでした。
ビング・クロスビー(1903年5月2日〜1977年10月14日)はアメリカの俳優、歌手として大活躍した人物です。歌手として、13曲もの全米ナンバー・ワン(ビルボード誌)を持つ人物ですが、そんなビングの代名詞ともなっているのが、「ホワイト・クリスマス」です。
この歌を収めたアルバム『ホワイト・クリスマス』は、リメイク盤も含めると全世界で1億枚を超えるセールスだと推定されています。
「ホワイト・クリスマス」は、1942年のミュージカル映画『スイング・ホテル』(原題=Holiday Inn)で、ビング自身が歌い大評判となった歌です(ちなみに……この映画をきっかけにして、有名なアメリカのホテル・チェーンの名前が付けられました)。
この歌、なんとビルボードでは14週間1位を続け、その後1962年までの20年間(53年を除けば)クリスマス・シーズンになると必ずチャート・インしたという、文字通りのモンスター・ヒットだったのです。
ビング・クロスビーにはこれだけではなく、「ホワイト・クリスマス」がヒットする前にも、「きよしこの夜(サイレント・ナイト)」(1935年)で、発売当時で600万枚売り切ったと言います。昭和10年発売のSP盤が、600万枚! 信じられません。
この柔らかな声は、よほど欧米の人たちに安らぎを感じさせたのでしょう。
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2)江戸時代にできた聖歌(キャロル)、「サイレント・ナイト」:
1)では、ポピュラー音楽(流行歌)として世界的に知られるクリスマス・ソング、「ホワイト・クリスマス」のことをお話しました。
次は「サイレント・ナイト(きよしこの夜)」です。クリスマスを祝う敬虔な歌(クリスマス・キャロル)として、古くから愛唱されてきました。
静かな祈りの夜を表現した名作中の名作です。
この歌、スペイン語圏では「ノーチェ・デ・パス Noche de Paz」といいますが、これは「平安なる夜」という意味。つまり「静かな Silent」というのは、祈る人たちの心もクリスマスに際して、かくありたいというメッセージが込められているようですね。
「サイレント・ナイト」は、1818年に初めて教会で歌われたキャロルだと言われています。 1818年といえば文政元年、江戸時代の歌なのです。
こういった由緒ある歌になると、その誕生に色々な「話の尾ひれ」が付くものです。「サイレント・ナイト」も、例えば、クリスマスを目前に控えた教会でオルガンが壊れてしまって大慌ての司祭が、「オルガンの伴奏がなくても大丈夫な歌を!」と急遽、ギター伴奏で歌える新曲を作った…、そしてそのオルガンが壊れた原因は、なんとネズミが齧ったせいだった!…といった名曲ゆえの「伝説」があります。
本当の所は、この1818年のクリスマスの日、オーストリアのとある村の教会で、ギターを伴奏にした合唱曲"Stille Nacht! Heilige Nacht"(ドイツ語/英語で言えば<サイレント・ナイト、ホーリー・ナイト>)が、初めて歌われたということです。
そしてこの時の楽譜を、教会のオルガンを修理しにきたオルガン職人が見つけ、その写譜を持ち帰ったことをきっかけにして、ドイツや、海を越えたアメリカなどへ一気に広まって行ったのだそうです。
なにしろ美しく敬虔な「サイレント・ナイト(きよしこの夜)」。広まった当初は、作曲者もわからなくなり、ただ単に「チロル地方のフォーク・ソング」として伝播したのですが、そのメロディの見事さゆえに、この歌はモーツアルトやベートーヴェンの作ではないかとさえ言われたこともあったそうです。
(本当の作者:作詞=ヨセフ・モール司祭、作曲=フランツ・グルーベル)
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3)「ジングル・ベル」を歌いながら、競馬をしよう?!
クリスマスの音、といったら、みなさんは何をイメージされますか?
教会のオルガンの響き、鐘のの音。敬虔なキリスト教徒たちの祈り声。
…でも、やっぱりシャランシャランと鳴る鈴の音、ですよね。
音楽に、あの音をちょろんと加えるだけで、深々と雪が降り積もる景色が広がって、そこに鈴をつけたソリが走って行く…というイメージが出来上がります。
私たちのアタマの中に、<鈴の音=雪とクリスマス or サンタクロース>が、インプットされていると言ってもいいかも知れません。
クリスマス・ソングで鈴の音といえば、「ジングル・ベル」です。
でも考えてください、あの「ジングル・ベル」という歌の、いったいどこがクリスマスなんでしょうか?
実はこの歌、馬橇(うまぞり)競争の歌なんですね。もともとはクリスマスとは関係のない歌でした。
この歌はジェイムズ・ピアポント(James Lord Pierpont)という、1822年に、アメリカのマサチューセッツ州ボストンに生まれた人が作ったものです。
ピアモントのお父さんは、牧師であり、また熱心な奴隷解放論者でした。まだ南北戦争(1861〜1865)の前ですから、北部の牧師さんとはいえお父さんは進んだ考えを持った人物だったようです。
息子ジェイムズの仕事は、教会のオルガン奏者・合唱団の指導者でした。プロのソングライターでもありました。
この歌の楽譜が最初に出版されたのが、1857年、日本でいえば幕末です。題名は「One Horse Open Sleigh」(馬一頭立ての屋根なし橇)。
その2年後の1859年、今度は題名を変えて再度、楽譜が出版されます。この時の題名が「シングル・ベル(Jingle Bells)」。どちらの楽譜も、最初はたいした評判は呼ばなかったようです。
歌詞を見てみましょう。
最もよく歌われる有名な一番が、雪の中を鈴を鳴らし橇をゆく楽しさがテーマです。
でも、例えば2番は、傍に女性を乗せて走ろうとしたら橇がひっくり返ったんだよ! という内容なのです。
4番は、若いんだからさ女の子を連れて、この橇の歌をうたって、鹿毛の馬に賭けようじゃないか!……ジングル・ベル、ジングル・ベル!……という内容なんですね。
作者が育ったニュー・イングランド地方(マサチューセッツ州ほか北東部の6州)には、「カッターズ cutters」という若者たちによる一頭立ての馬橇競走があるそうで、ピアポントはこの時の興奮、楽しさをテーマにしているのです。
ですから、「ジングル・ベル」はどちらかと言えば、くだけた流行歌って感じが本来の姿のようです。現在うたわれている「ジングル・ベル」には、1番を繰り返しているものが多いように思えるのはそのせいでしょうか。
この歌は、作者の兄が牧師をしていたジョージア州の教会に彼が籍を置いていた時代に作られました。
一説には、クリスマスではなく、感謝祭(サンクスギビング・デイ)に初めて会衆の前披露され、この時のウケが良かったせいで、クリスマスの時にもぜひ歌おう! と周囲からリクエストされたとも。場所は暖かなジョージア州。彼が、故郷の冬の風物詩を懐かしんでこの歌を作ったとも言われています。
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4)「赤鼻のトナカイ」はクリスマス商戦から
クリスマス・シーズンを彩る有名な歌の逸話や、バックグラウンドを紹介してきましたが、今回は「赤鼻のトナカイ」です。
「ホワイト・クリスマス」に継いで、大定番、超ロング・セラーとして有名な歌が、原題「ルドルフ、赤鼻のトナカイ(Rudolph the Red-Nosed Reindeer)」です。
この赤い鼻をしたルドルフ、サンタクロースとセットになって百年も二百年の昔から語られてきたような気になりますが、実は案外と新しく1939年(昭和14年)に世に出たものなんです。
それもデパートのクリスマス商戦のマスコットとして…。
この年、シカゴに本社を置くデパート・チェーンを経営する会社、モンゴメリー・ワード(Montgomery Ward)の幹部が、毎年恒例になったクリスマス用の無料景品(印刷物)に何がいいか、同社のコピーライターにいいアイデアを出せと命じます。
命を受けたのは、当時34歳だったロバート・メイ。メイは、子どものためのお話を書くのが大好きな人だったらしく、大いに喜んで、「赤く鮮やかに光る鼻を持ったトナカイ」というキャラクターを考え出します。
このトナカイ、つまりかの有名なルドルフ君は、奇妙な鼻を持つがゆえに仲間たちから疎外された存在だったのです。
さあ可哀想なルドルフ君は、どうやってサンタさんと出会い、世界中の良い子のためのプレゼント・ツアーにどれほど貢献するのか? というお話が無料の小冊子として配られて、「赤鼻のトナカイ」のお話は一気に有名になったのだそうです。
モンゴメリー・ワードは、1939年のその年だけで、何と240万部を印刷しました。
その直後の戦時下(第二次世界大戦)においては、紙不足によりさすがに規模を縮小したようですが、戦後の1946年末までに600万部を印刷・配付したといいますから、アメリカの子供たちにどれほど受け入れられたかが分かります。
ちなみにルドルフ君の、みんなから変人(変トナカイ?)扱いされ、馬鹿にされるキャラというのは、アンデルセンの「醜いアヒルの子」と、チビで恥かしがり屋でイジメられっ子だった少年時代の作者自身を反映させたものだそうです。
戦後に入って、商品としての本やアニメ映画が作られてブームはさらに加速。49年には、私たちがよく知ってるあの歌が録音されます(この歌を作ったジョニー・マークスはメイの義理の兄弟にあたります)。これも大ヒットとなりました。
もちろんテレビもこの人気を追いかけ、1964年12月に放映されたNBCの特別番組「ルドルフ 赤い鼻のトナカイ」(人形アニメ)も大好評を呼んだといいます。
メイが作ったオリジナル・ストーリーによると、サンタがルドルフを見つけたのは偶然でした。
すなわちサンタは、ルドルフの家にプレゼントを届けようとした時に、ルドルフの部屋から明るい光が漏れているのを発見したのです。サンタは、濃い霧のせいで、全世界で待つ良い子にプレゼントを贈るのが遅れて困っていました。そこでルドルフに、トナカイ・グループの先頭に立ち、「道を照らす」リーダーになってほしいと頼んだのです。
以来、赤鼻のトナカイは、サンタの大切なパートナーとなりました。
……ちょっと、いい話じゃないですか?
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5)サンタさんの衣装も広告宣伝だった、という有名なお話
ピカピカ光る赤い鼻のトナカイが、アメリカのデパートチェーンの宣伝から定着したというお話をしました。
では、サンタクロースはどうなんでしょうか。
あの白いヒゲに、赤のズボンに上着、そして帽子というサンタのイメージは、日本コカコーラの広告宣伝用に作られたのです。
ではその前に、サンタクロース(Santa Claus)は、いかにして「コカコーラの宣伝まで」に辿り着いたかをご説明しましょう。
サンタクロースは、かつての小アジア(Asia Minor)の都市、ミュラにいたニコラス司教がモデルだと言われています(ミュラは現在のトルコ南部に位置する)。
ニコラス司祭は、3世紀にミュラの近くにあるパタラの裕福な家庭に生を受け、343年12月6日にミュラでなくなったとのことです。
よく言われているように、彼はキリストの教えを忠実に守り、困窮する者や病める者があれば自分の財産を惜しげもなく与えたと言われています。子どもにも格別に優しいキリスト者でした。
嫁入りのための持参金がない貧困家庭の娘3人が、もはや奴隷として売られるしか道はないと絶望の淵にあった時、(何者かによって)窓の外から黄金の入ったバッグを三度にわたって投げ込まれることもありました。当時は、よりよき結婚をするために、娘を持つ家庭は望む階級に応じた持参金を用意しなければならなかったからです。
この時、その黄金入りのバッグは乾燥用に吊るしてあった靴下(あるいは靴)に入っていた(!)…とのことです。
今日、クリスマスに靴下、あるいは靴をプレゼント用に出しておくこと、さらに、三つの金の玉、あるいはその代用としてのオレンジが、サンタのシンボルとなっているのは、この逸話をきっかけとします。
こういったニコラス司教にまつわる逸話は、時代を経て、様々な伝説を生んでいったのです。
聖ニコラス(セイント・ニコラス)の名は、オランダでは、オランダ語のシンタ・クラース(Sinta Klaas)となり、それがアメリカに伝わり、サンタクロースと発音が変わったとされています。ドイツ経由で現行のアメリカ英語になったという説もあります。
また、かのコロンブスが、カリブ海で現在のハイチがあるエスパニョーラ島にたどり着いた時(1492年)、彼が港とした場所に付けた名前も「聖ニコラス」でした。17世紀、オランダ人がニューヨーク(かつてはオランダ人にちなんでニュー・アムステルダム)に入植した時、旅の無事を感謝して建立した像も、聖ニコラス。ニコラス司祭は、その生前、海事に関しても深いかかわりを持った聖職者でしたから、航海の守り神でもあるわけです。
アメリカに上陸した聖ニコラス伝説は、人から人へと伝わり変化を遂げて行きます。
伝説は、日本コカコーラのホームページによれば、
「作家ワシントン・アービングがオランダ民話に基づいて1809年に出版した作品『ニッカーボッカーのニューヨーク史』にも登場します。この本の中でセント・ニコラスは“低いつば広の帽子をかぶり、フランドル風のだぶだぶの半ズボンをはいて、長いパイプを持った”人物として描写されています」
私たち日本人の一般的なイメージとは、ずいぶん違います。
ちなみに、オランダでは古くから聖ニコラスは白馬にまたがり、各家々の煙突からお菓子を投げ入れるというお話も伝わっているそうです(オランダでは、ニコラス司祭が亡くなったというその前夜<12月5日>こそが、子どもたちにとっての期待の時で、翌朝に目を開けるとプレゼント発見! となるそうです。この日は幼稚園や小学校などにはお休みになる所もあるとのこと)。
さて、ぽっちゃりと太った陽気なオジさん、というイメージをアメリカで確立させたのは、19世紀、詩人のクレメント・ムアーだそうです。そして、彼の詩に登場した<小妖精のサンタクロース>というイメージを、さらに人間ぽくガラリと変えてしまったのが、コカコーラ社の宣伝でした。
1930年、フレッド・ミゼンという画家が同社の雑誌広告にサンタを登場させます。
そこには「クリスマスのデパート店内でうっとりとした子供達に囲まれている、赤い服の太ったサンタが描かれています」(同社のHPから)
翌1931年、今度はハッドン・サンドブロムなる人物がこのサンタ広告を担当し、以後35年間にわたって「サンドブロムのサンタクロース」とまで呼ばれる広告作品群を世に送り続けたのでした。
赤鼻のトナカイにしても、あの赤い服を着た気の良さそうなサンタも、商品イメージと共にアメリカから我々のもとに届けられ、それが「日本の常識」となった、ということなんですね。
日本コカコーラ会社のHPから:
http://www.cocacola.co.jp/corporate/gallery/santa/
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6)
マービン・ゲイの名唱「I want to come home for Christmas」
「ホワイト・クリスマス」「きよしこの夜」など、今週は有名なクリスマス・ソングの面白い逸話を紹介してきました。
最後となる今回は、クリスマス・ソングから(少しだけ)今の世界を考えてみよう、がテーマです。
サンタクロース伝説の発端となった、聖ニコラスが人々から絶大な尊敬を集めたのは、その慈善の心、そして弱者に対する積極的な行動でした。
ですが、聖ニコラスの時代から約1600年もの歳月を経た今では、高級ブランドを彼氏にネダる日、と勘違いしている方々も少なくありません。
それも<ハッピー・クリスマス>には間違いありません。が、世の中にはとても幸せとは呼べない境遇にある人たちも、日本に、世界に、たくさんいます。2005年を振り返れば、日本国内だけでも、思いもかけない無残な事件、悲劇が連日のように起こりました。
戦争、テロ…これも、いっこうに終わることがない。
クリスマス・ソングの中にも、こういった厳しい現実と向き合い、考えてみようよという歌があります。
有名なところでは
ジョン・レノンとオノ・ヨーコの共作「ハッピー・クリスマス」。アメリカでは1971年の12月、イギリスでは1年遅れて72年の11月に発売になった歌です。そう、サブ・タイトルに「WAR IS OVER」という言葉が据えられ、歌の中にも「あなたが望めば、戦争は終わる WAR IS OVER! IF YOU WANT IT」」と繰り返されます(日本語の副題は「戦争は終わった」と表記)。
音楽家による救済イベントの世界的な画期となった「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」(1984年、by バンド・エイド)もあります。これはエチオピアの飢饉を救済するために高名なミュージシャンが結集した企画でしたが、20年後の2004年には、バンド・エイド20という名前のもと、ニュー・レコーディングで録音し直されました。
そして、ソウル・ミュージックの大スターだった、故
マービン・ゲイにも、素晴らしい作品があります。クリスマス・ソングの中で、苦悩する人の心の叫びを、これだけ熱く歌い上げた歌もきっと珍しいでしょう。
「アイ・ウォント・トゥ・カム・ホーム・フォー・クリスマス」。
72年の作品です。背景にあるのはジョン&ヨーコの「ハッピー・クリスマス」と同じく、ベトナム戦争(1960年代初頭〜1975年4月30日)です。
「あの小さくて懐かしいクリスマス・ツリーを見ることができるのなら、雪遊びをする子どもたちの笑い声が聞けるのなら、ぼくのベイビーにキスができるのなら…ぼくは何を捧げてもいいんだ。でも、ぼくは…」
というのがこの歌の出だしです。
彼はなぜクリスマスを家族と祝うことができないのでしょうか?
彼は捕虜として独房生活をしているからです。独居房に横になり、家族のことを想っている一人の兵士。ぼくのことを心配しないで。でも、ああ、ジングル・ベルのあの音が聞きたい。
こういう歌が、今も胸に響くのは、ただ単に
マービン・ゲイの歌が素晴らしいからだけでしょうか?
クリスマス・シーズンの今、改めて考えたいものです。
*この原稿は、毎日放送「はやみみラジオ 水野晶子です」(月〜金 午前6:00〜7:45)の「音楽いろいろ、ちょいかじり!」に書き下ろしたものを再構成しました。クリスマス・ソング特集:2005-12-12〜2005-12-16放送。