文・藤田正
どんなジャンルにも時代にも「変革期」があります。
日本の音楽の世界もそうです。古くは明治に小学校唱歌(官主導)が作られたり、そのあと童謡が在野の文学者らによって作られたり、あるいはレコードという新メディアが一般化したりと幾つもの変革があり、そのつど音楽は変りました。
メディアと音楽という点では、携帯やパソコンへ音楽データをダウンロードすることが、若者を中心として当り前のようになりつつある「今」も、おそらく大きな変革期にあたるでしょう。
40年前の6月も、そうでした…。
1966年6月29日午前3時39分、JAL412便が、羽田空港に到着し、タラップから4人の若者が日本に降り立ちました。「ザ・ビートルズ」の来日です。
世界各国からスーパースターがやってくることは、今ではさほど珍しいことではありませんが、40年前のビートルズの来日はすべてが前代未聞だった、と言われています。
(ビートルズの正式名には「ザ」が付きますが、ここでは通称でいかせてもらいます)
<1>おっそろしいほどの「要人」「VIP」扱いだったのです
最初は数字から。8370人。
ビートルズが来日したのが6月29日、次の公演先であるフィリピンへと飛び立ったのは7月3日です。8370人というのは、その5日間に動員された、警官の動員数です(警視庁発表)。
空港、車での移動、ホテル、公演会場(日本武道館)…と、4人の周辺にはものものしい警備体制が敷かれました。宿泊先となったヒルトン・ホテル(現・赤坂東急ホテル)では、第5機動隊1個中隊ほか、警官以外のガードマン(160人ほど)も張り付いて来館者を徹底して規制、不測の事態に備えたのです。
ちなみにこの5日間で補導された少年少女の総数は、6520名(警視庁発表)。
しかしそのほとんどが、「学校がえりにビートルズを見にやってきた中学、高校生の少女たちだった。むろん、非行とは何の関係もないし…」(『ビートルズ・レポート』23ページ)…というのが実態。厳戒態勢の空港でそれでも4人を待っていたファンも、わずかに15人でした。
これが当時の大人たちの、異常としか言いようのない、反応でした。
右翼によるテロが起こるかも、大騒乱が発生?…こんな無責任なウワサがまことしやかに雑誌などで流され、一種の「社会不安」が巻き起こったビートルズの来日だったのです。
そしてロックは、それほどに(大人たちには)危険な嫌われものの音楽だったという側面があったのです。
*注:上記の数字はすべて『ビートルズ・レポート』から。なお、警官の動員は約3万人という別の資料もありますが、ここでは「レポート」(22、23ページ)に記載された数字を使いました。おそらく「3万人」というのは、民間のガードマンらを含めた警備を担当した人々の総数だろうと私は想像します。
<2>トリビア集(1):30分の来日公演でした
ビートルズの来日公演で、「一部」(前座)を務めたのは…そうです、故・いかりや長介さん率いるザ・ドリフターズです。これは今もクイズなどに時折、出題されますね。
でも、ほかにも舞台に上がった歌手、グループはいたんです。
内田裕也、尾藤イサオ、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ…このような面々です(ザ・ドリフターズは7月1日の公演から、ブルージーンズはリーダーの寺内タケシが契約の問題で同バンドを脱退した直後のために寺内だけが出演しなかった)。
ユーヤさんも尾藤(びとう)さんも、日本の「ロッケンロール!」の草分けのような歌手です。内田さんは今や、異色の俳優としても活躍中。尾藤さんは「明日のジョー」のヒット曲を持ち、個性的な俳優さんとしても活躍してます。ブルーコメッツはグループ・サンウンド(GS)の代表格の一つ…こんな人たちでした。ちなみに司会は、E.H.エリックさん(故人/岡田真澄の兄/岡田美里は娘)。<岡田真澄=も2006年5月29日、故人に>
それで、肝心のビートルズの演奏時間はというと、約30分!
だから「一部」で、何組も出演者を出さなくては、ちょっと公演時間が持たなかった…ということでしょうかねー。
演奏された曲目は、「Rock And Roll Music」から始まり「I'm Down」で終わる11曲です。30分ですから、あっという間に終わってしまいました。
そして「ラブ・ミー・ドゥ」「シー・ラブズ・ユー」といった初期の代表曲、大ヒットがいっぱい並ぶのか? とも思われていましたが、それほどでもありませんでした(下記の曲目リスト参照)。
むしろ、ライブとしての流れ・構成を重視した起伏ある選曲だったといえるでしょう。
そういうところから見ても、当時からビートルズは、操り人形のようなアイドルではなく、つらく売れない時期も経験したプロのバンドだったことがわかります(ただ、当時12歳の少年の印象としては、知らない曲が多くて、なんだか拍子抜けしたところもありました:藤田正の感想:)。
公演日程:6月30日から3日間(計5回公演=内、追加公演2回)。
会場:日本武道館。(動員警備員数=総計4600人)
入場希望者はハガキで申し込み、抽選によりチケットが購入できる(2100円、1800円、1500円の3種)。応募総数、23万通。
当時の物価(1966年):精米1キロ=123円、清酒(2級、1.8リットル)=510円、新聞購読料(1カ月)=500円、大卒初任給=25150円//物価値段の出展:『Get Back! 60's:ビートルズとわれらの時代』(144ページ)
演奏曲目リスト:
1.Rock And Roll Music
2.She's A Woman
3.If I Needed Someone
4.Day Tripper
5.Baby's In Black
6.I Feel Fine
7.Yesterday
8.I Wanna Be Your Man
9.Nowhere Man
10.Paperback Writer
11.I'm Down
<3>トリビア集(2):ビートルズ・パンティまでも登場!
人気にあやかった便乗商法は、いつの時代にもあるものです。
来日した世紀のスーパー・バンド、ビートルズにも「関連商品」がたくさん発売されました(『ビートルズ・レポート』96ページにリストが)。
ほんの少しだけですが、紹介しましょう。
ビートルズカツラ(一人分)=15000円
デスマスク=4800円
セパレーツ水着=2800円
ブラウス=1500円〜500円
スリップ=1000円
ジュニアスカート=980円
手さげ=400円
クッション=1000円
…当時の資料によると、約25の会社から50種ほどの商品が売り出されたそうです。
これらの品目を見ていると、若い女性ファンを目当てにしているだろうということがわかります。
中には、ビートルズ・パンティというシロモノもありました。4人のサインをプリント(?)したこの女の子の下着、れっきとした大手の東洋レーヨン社から発売されたそうです。すごいですねー。
ビートルズ・パンティに限らず、デスマスクや、彼らのトレードマークだったマッシュルームカットのカツラなど(4人分、別々にある!)、オヤオヤこれは何だ? という商品がいくつも見受けられます。
でも、それもこれもビートルズというグループが、世界の若者たちを突き動かす巨大な存在であることに、日本の企業が気づき始めた証拠の一つだとも言えるでしょう。
つまりビートルズの来日は、日本の新聞、ラジオ、テレビ、雑誌、広告代理店、そのほか各種企業が、「若者マーケットの開拓と拡大」という命題を具現化するために全力疾走した、戦後の日本における画期となる大事件だったのです。
ビートルズの来日は、スター・バンドがやって来た!、というだけではなく、彼らのような計り知れないエネルギーを持つ存在は、たくさんの若者を活気づかせ、さらには大きな市場をも生み出すことを「企業と大人たち」に、強烈に印象づけることになったのです(厳密には、ビートルズの来日だけがそうであったとは言い切れませんが、60年代において、その筆頭であったことは確かでしょう)。
若者というマーケットをいかにして広げ、かつ掘り下げるか…ビートルズの来日は、今日の音楽、スポーツほかの大イベントのルーツだった、とも言えるでしょう。
<4>文化は若者が主導する時代へ:そのドラマチックな変化
1960年代は「若者文化」がその姿をはっきりと見せた時代でした。これより以前の若者というのは、単に大人になる前の若年層を指すことが多く、確固たる文化を創造する存在だとはあまり考えらてはいませんでした。
しかし1950年代のエルビス・プレスリーらのロックロールを経て、音楽に限っただけでも、たくさんの新しい若者のカルチャーが一斉に花咲いたのが60年代です。
ビートルズに代表されるロック・ミュージック、テンプテイションズほかのモータウン・サウンド(ソウル・ミュージック)、ジョン・コルトレインやマイルス・デイビスらのモダン・ジャズ…。これらはスタイルこそ違え、決まりきった大人の考え方・生き方を拒否する、さらに言えば反体制である…といった考え方に共通点を見出すことができます。
規制社会や、ごく普通の大人たちが、そんな考え方を持った若者に対して、あるいは彼ら若者が生み出す音楽に対して、快く思わないのは当然のことです。
ビートルズ来日時の、警察やメディアの常軌を逸した対応は、その表われの一つだったのかも知れません。なにしろ当時は、ロックやフォークのレコード・コンサートを開くだけでも、その会場の前にPTAの役員や警察関係の人が机を並べ、若い参加者に住所と名前を書かせるということもあったのです(藤田の実体験/全国的に必ずそうであったかは不明)。
ビートルズのように髪を伸ばし、うるさいロック・ミュージックを聞いて踊ったり叫んだりすることは、まさしく不良の象徴でした。
ビートルズの警備には、約9000万円の経費がかかる、というのは当時の警視総監の発言です(『ビートルズ・レポート』103ページ)。これを指して、国民の大切な税金をビートルズごときの警護に使っていいのか、という批判もありました(確かに、暴動など起ころうはずがないのですから、無駄遣いには違いありません)。
「ビートルズ批判のもろもろ」
*エレキをかき鳴らして、うるさいだけのものが音楽ではありえない。
*ビートルズらは、若者たちの欲求不満を助長しているだけで、悪いことだらけ。教育に良くない。
*もし公演をするなら、東京湾の埋め立て地「夢の島」あたりでやらせろ。格式ある日本武道館でビートルズをやるなんて、言語道断(ビートルズは、ロック・バンドとして日本武道館でコンサートを行なった初めてのバンド。彼らが常識を破ったことで、日本武道館はあっという間に「日本におけるロック・イベントの中心」となった)。
*(外貨規制のあった日本で)ビートルズに、莫大なドルを手渡していいのか? これは国家的な問題である(ビートルズのギャラは、3ステージで10万ドル=3600万円、だったと言われている)。
……様々な批判、中傷がビートルズを襲ったにもかかわらず、ビートルズに象徴されるロック・ミュージック(同じくその傍にあったフォークも含めて)は、ビートルズの来日を大きな契機として、60年代の後半には若者文化の中心となります。
それは、なぜでしょう? みなさんの経験を元に、ちょっと考えてみませんか?
<5>来日時はビートルズにとっても変革期だった:解散へ向けて
日本の音楽の流れを、若者主導の方向へと決定づけたのが、40年前のビートルズ来日公演だったと言えるかもしれません。
でも、ビートルズの日本武道館ライブは、音楽的にはそんなに充実した内容ではなかったと言われています。というのも、あのようにガランとした巨大な空間の中で、4人が願うようなサウンドを観客に届ける技術(PA)は、日本ではまったく発達していなかったからです。
客席からは「キャーキャー、ワーワー」の金切り声、ステージからは音響状態の悪いエレキ・サウンド。そのミックスが「騒音」として聞こえたとしても、不思議ではありません(ただロックには、一つの空間を共有して全員が精一杯盛り上がる、という楽しみ方もありますけどね)。
こういった史上空前の「騒音」状態に対して、ビートルズたち自らがウンザリしたのも、今からすれば、理解できるように思います。
たとえば、ビートルズは来日する少し前から、世界各地で大掛かりなコンサートを開くようになっていました。中でも有名なのは、来日前年となる65年8月、ニューヨークのシェア・スタジアムで行われたコンサートですが、この野球場には56000人という記録的な観客が押しかけました(ビートルズは、こういう野外の野球場でコンサートを行なった初めてのロック・バンドでもあります)。
しかしこの時も、ファンの金切り声と、劣悪な音響のせいで、何が何だかわからないコンサートとなったのです。
ビートルズは、「俺たち、いったい何をやってるんだ?」という状態で、66年6月に来日したのです。そしてさらに日本では、「世界一の警備」により(一、二度の脱走劇を除いて)、文字通りカンヅメ状態にされたわけです。
ちゃんと音楽をやりたい!
世界最高の人気を誇る4人が、最終的に出したのは「もうライブはやらない」という結論でした(こんな行動も、前代未聞です)。
加えて、彼らがジョークとして発言した言葉も、大事件へと発展するようにもなっていました(例:ジョン・レノンの「キリスト発言」66年3月=ビートルズは今やイエス・キリストよりも人気がある…ウンヌン/この発言は、保守的なキリスト教徒の多いアメリカ南部で大規模なボイコット運動に発展した)。
彼らは、自分たちが想像するよりもはるかに巨大な存在になっていたのです。
もう一度、ミュージシャンとして、ちゃんとした音楽を作ろう。疲れきった4人は、世界を飛び回る機内で、こう話し合ったのかもしれませんね。
そして、たった一度の日本公演からわずか2ヵ月後の8月29日、サンフランシスコでのコンサートが、ビートルズとしてのラスト・コンサートとなりました。
<参考資料>
『Get Back! 60's:ビートルズとわれらの時代』(別冊太陽、1982年)
『ビートルズ・レポート 東京を狂乱させた5日間』(話の特集、1966年/復刻版・WAVE出版、1996年)
CD『ザ・ビートルズ 1962年〜1966年』(東芝EMI)
*この原稿は、毎日放送「はやみみラジオ 水野晶子です」(月〜金 午前6:00〜7:45)の「音楽いろいろ、ちょいかじり!」に書き下ろしたものを再構成しました。2006-06-05〜06-09放送。