正念場を迎えたホイットニー・ヒューストン
文・藤田正
 アメリカを代表するシンガーであるホイットニー。80年代の後半から約10年、その活躍は素晴らしいものがあった。しかし今は? マリワナ所持事件と前後して、どうも雲行きが思わしくない。この特集では、そんな彼女のこれまでを追う。
 ホイットニー・ヒューストンの歌には、とてもいい思い出がある。
 それはジャマイカでのことだった。1998年のことになるが、当時の私は国連による「子どもの権利に関する条約」に沿った企画として、キングストンでCDのレコーディングを行なっていた。お目当てはジャマイカのレゲエ・ミュージックではなく、レゲエの背景にある「捨てられた子どもたち」の歌である。
 山の中のある孤児院では、数十人の子どもたちがアフリカン・ダンスやジャマイカの古謡、最新のレゲエにいたるまで、次々と歌い踊ってくれた。彼らの「出し物」は、すなわちレゲエがどのように作られたかの見事な傍証であり、貧しき者、傷を負った者たちのためにこそレゲエはあると、私は実感した。
 彼らのレパートリーの中で、繰り返し歌われたのがホイットニーの「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」だった。
(photo:BMG Victor)
 言うまでもなく「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」は、1985年に発表された彼女のデビュー・アルバム『そよ風の贈りもの Whitney Houston』の中に入っている美しいバラードである。
 私はこの時、この歌が、親に虐待を受け、路上に捨てられた子どもたちをどれほど勇気づけているか、初めて知ったのである。
 子どもは未来である、子どもの心の中にある輝きを見つけ、プライドと笑い声を与えようと歌われる「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」が、幼児から17、18の青年に至るまで、心身のどこかにキズを負った者たちの口から次々とついて出た時、私は彼らを正視することはできなかった。
 なんぴとも私の尊厳を奪うことはできないという内容を、二人の幼児が歌うのである。もちろん「ディグニティ」という難しい言葉をこの児たちが理解しているとはとても思えない。しかし、先生からこの歌は君たちのものだと教えられたのか、意を決してマイクの前に向かう姿は、俗事にまみれた大人たちに矢を放っているようにも見えたのである。
(Arista ARCD8212)
■数の論理とゴスペル的な感性
 「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」は、ゴスペル・ソングである。キリストの言葉の出てこない、現代の霊歌である。
 ホイットニー・ヒューストンを理解するには、この視点は欠かせないように私は思う。
 確かにホイットニーのようなビッグ・シンガーともなれば、数(売り上げ枚数)が「理解」の中心であるという言い方もできる。なにしろ「すべてをあなたに」が250万枚、「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」が200万枚、「すてきなSomebody」が420万枚、「オールウェイズ・ラヴ・ユー」が850万枚と、デビューからこれまで、驚異的なセールスを上げてきた彼女である。人種偏見の根強いアメリカにあって、後進のマライア・キャリーセリーヌ・ディオンらと異なる場所から、ホイットニーはこの「数字」を築き上げた。それだけでも、彼女のセールス枚数や賞の数々は、重い記録ではある。
 しかしもちろん、数だけでホイットニー・ヒューストンという歌手の本質が語れるわけでもない。そこに私は、ホイットニーが少女時代から培ったゴスペル的なセンスを見ているわけである。(写真は、デビュー盤『そよ風の贈りもの』のオリジナル・ジャケット)。
 不思議なことに、ホイットニーは、スターダムに乗った当初から「黒人のハートがない」と酷評されてきた。ゴリゴリに鍛え抜かれたノド、飛び散る汗、熱狂……そんな「黒いイメージ」は彼女にはない。こういったものこそがソウル〜R&Bらしさであり、その父親であるゴスペルの味じゃないか、と。
 確かに彼女は、体中から匂い立つようなR・ケリーのようなエロスや、ジェイムズ・ブラウンのような泥臭さいボーカルを聞かせたことはない。しかしそれだからと言って、彼女が「ブラックらしくない」と言うことはできない。
 ブラック・ミュージックの流れ、つまりアメリカン・ポップの土台を築いた黒人音楽の流れには、神に仕える者として居住いをただし、クリーンな心を反映する歌も、主流の一つとして存在するのである。
 奇妙に聞こえるかも知れないが、かのマービン・ゲイの歌声だってそうである。彼の歌の基本は、シナトラ的な甘いクルーナーのスタイルに、私が指摘するクリーン・ゴスペルな歌唱を混ぜ合わせたものが出発点にある。
 「黒人音楽・イコール・汗くさい」。この、ある意味で魅力的であり、ある種の偏見をはらんだ我々の視線に、彗星のごとくスターとなったがゆえに悩まされるハメとなったのが、ホイットニー・ヒューストンという一人のブラック・ビューティだった。
■売れっ子のモデルからシンガーへ
 ホイットニー・ヒューストンは、1963年、ニュージャージーのイースト・オレンジという、スパニッシュと黒人の集住地区に生まれている。
 名歌手として知られたシシー・ヒューストンの娘であり、ディオンヌ・ワーウィックはオバ、母の友人がアリサ・フランクリンという、にわかには信じがたい絶好の環境の中で、彼女は育った。父はシシーのマネージャーで、母親がツアーに出かける時は進んで「主夫」までやるような人物だったらしい。ホイットニーはインタビューに応えて、父を頂点として今でも家族は一致団結していると胸を張ったこともある。
 また、先に触れた「黒人らしくない歌手」という批判に対しても、大歌手ビリー・ホリデイを引き合いに出して、私はアノ人のように麻薬漬けになるような家庭に育たなかった、だからビリーのようではないと言われても困る、といった、内容の発言をしている。
少女の頃から教会のソロイストとして有名だった彼女は、八十年代に入る頃から、その美貌を活かしてモデルの売れっ子になり、同時に歌手としての道を探っていた。
その頃の彼女は、たとえば81年にはネビル・ブラザーズの『フィヨー・オン・ザ・バイユー』、翌82年にはビル・ラズウェルのプロジェクト、マテリアルの『ワン・ダウン』にもヴォーカルで参加している。だが何といっても、業界の大物であるクライヴ・デイビスとの出会いが決定的だったことは言うまでもない。
 クライブがホイットニーを見初めたのは83年頃。それから約2年間、ホイットニーのスター化計画が進んで行く。大事故を起こしたテディ・ペンダグラスの復活時の共演、ジャーメイン・ジャクソンとのコラボレイションほか、ホイットニーのソロ・デビューに向けて、テレビ、音楽ソフトなど主要メディアが駆使された。
 そして待ち望まれたデビュー。爆発的な瞬発力で、彼女はスターダムへと昇っていった。

■ぼくが成功を保証する、から
 ホイットニーの爆発的な人気の中心はバラードである。どれほど力を込めても、ゆるやかでスムーズな流れをキープするボーカル・コントロールである。
 だからその容姿、そのドレスにふさわしく、ごく一般の人たちにクリーンのままのメッセージを伝えることができる。
 そしてもう一つ、ジェリー・ゴフィンマイケル・マサーリンダ・クリードら古参の作家たちの作品を積極的に登用し、それを彼女の第一のカラーとしたことである。
 「すべてをあなたに」はゴフィン&マサーによる78年の作品(マリリン・マックー&ビリー・デイビス・ジュニアの持ち歌)。「グレイテスト…」のオリジナルは、モハメッド・アリの自伝映画『ザ・グレイテスト』(77年)のテーマとしてジョージ・ベンソンが歌ったものだった。こちらの作は、クリード&マサーである。
(BMG BVCA152)
 もちろん『そよ風の贈りもの』も、続く『ホイットニーⅡ Whitney』(87年)も、カバーばかりではないが、こういったゴスペル的な歌唱法を活かしながら、広大な支持層に訴えかけようとした時、<チーム・ホイットニー>が何を考えたのかは、これらベテラン作家陣の起用、旧作の掘り起こしに明確に見えることは間違いないだろう。
 そして、あの歌が登場する。「オールウェイズ・ラヴ・ユー」(92年)である。ケビィン・コスナーに「いつになったら出演の返事がもらえるんだ。怖がるんじゃない、ぼくが成功を保証する」と叱咤されたという、まるで映画のような逸話が残る『ボディガード』は、映画の世界的なヒットだけではなく、彼女をアメリカを代表するバラード・シンガーにしてしまった。それが、かの「〜アンダ〜〜イ」の名フレーズで知られる「オールウェイズ・ラヴ・ユー」だった。
 ホイットニーのソロは、デビュー、第2作、3作目の『アイム・ユア・ベイビー・トゥナイト I'm Your Baby Tonight』(90年)と発売され、次の第4作『マイ・ラヴ・イズ・ユア・ラヴ My Love Is Your Love』(98年)まで8年の間が空いてる。
(BMG BVCA27003〜04)
 ご存知のように、これは彼女が映画俳優と歌手の二足のワラジを履いていた時期で、みんなが驚いたボビー・ブラウンとの結婚(92年)、そして出産も、この時に流れたニュースだった。ホイットニーはソロ・アルバムこそ作らなかったが、『ボディガード Bodyguard 』(92年、写真)、『ため息つかせて Waiting to Exhale』(95年)『天使の贈りもの The Preacher's Wife 』(96年)と、人気絶頂のタレントとして映画・サントラに大忙しだった。

■『グレイテスト・ヒッツ』とマリワナ所持事件
 2000年、2枚組の『ザ・グレイテスト・ヒッツ The Greatest Hits』(写真)が発売される。
 アルバムには、これまでのアルバムに未収録だった作品、リミックスといったスペシャル・トラックに加え、新曲が4つが収録されていた。
 その共演がエンリケ・イグレシアスジョージ・マイケルデボラ・コックスQ−Tip(プロデュース)である。
 エンリケとデュエットした「クッド・アイ・ハヴ・ディス・キス・フォーエヴァー」は、当然、ラテン風ラブ・バラード。ジョージ・マイケルとの「イフ・アイ・トールド・ユー・ザット」は、ヒップホップR&Bである。
 特に面白いのはデボラ・コックスとの「セイム・スクリプト、デフィファレント・キャスト」だ。この歌は、ホイットニーに憧れ彼女に歌唱指導までされたブランディの大ヒット「ザ・ボーイ・イズ・マイン」(モニカとのデュエット)を、大人だったらこのように歌うのよ、といったメッセージすら感じるホット&ソウルなバラードとなっている。
 つまり、このアルバムは<グレイテスト・ヒット>の体裁を取りながら、新曲に大ヒット・メイカーとしての次の展開を盛り込んだ作品と言えるものだった。
 しかし、2000年という年はホイットニーにとって、別の意味でも曲がり角の年だったはずである。同年1月11日、ハワイでマリワナ所持が見つかった彼女は、翌2001年3月に司法取引によって起訴を免れるが、夫であるボビー・ブラウンと共に、薬物濫用のイメージが付いてしまった(ホイットニーは同法廷で、裁判所が定めたカウンセラーからリハビリなど治療を受ける必要は無いとの報告を受けている:Beats21のアーカイブ記事を参照)。
 ゴスペルをベースにした精錬なあの歌声は、どこへ?
 ホイットニーの正念場がやってきている。
(おわり)

( 2001/03/14 )

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