阿久悠というアソビ人が疾走した時代があった
文・藤田正

 阿久悠が亡くなったことは昨日の、夕方近くのラジオで聞いた。
 尿管ガン。70歳というから、まだやれる人だった。
 広告会社のサラリーマンから作詞家へ転進し、その後、小説家としても活躍した人物である。その阿久悠が、広く社会的に(文化人として)認められたのは『瀬戸内少年野球団』を書いて、日本の今に向かってコメントするようになってからのことだった。
 なかにし礼を見てもわかるように、流行り歌の現場で踏ん張っていてもニッポンはなかなか「エラい人だ」とは思ってくれないんだと、感じたことがある。
 阿久悠の業績はなんと言っても作詞家として1970年代にヒット曲を量産したあの時代にあるはずだが、評価は人生の後半に遅れてついてきた。
 阿久悠の底知れぬ才能は、文化人に「格上げ」される手前で、一度完全燃焼していたんじゃないだろうか……そんなことをぼくが感じたのは、膨大な数に上る彼のヒット曲の、その幅広さを俯瞰してみた時だった。
 たとえばこんな資料がある。ウィキペディアに載った「阿久悠のチャート独占」というコーナーで、「1977年12月3日付けのオリコンシングルチャートでは、阿久悠作詞の楽曲が100位までに17曲チャートインした。」とあり、次のようなリストが記載されている。

1位 - ピンク・レディー『ウォンテッド』
4位 - 沢田研二『憎みきれないろくでなし』
6位 - 岩崎宏美『思秋期』
10位 - 桜田淳子『もう戻れない』
11位 - 新井満『ワインカラーのときめき』
12位 - 石川さゆり『暖流』
13位 - ピンク・レディー『渚のシンドバッド』
14位 - 西城秀樹『ボタンを外せ』
20位 - ささきいさお『宇宙戦艦ヤマト』(アニメソング)
24位 - 石川さゆり『能登半島』
26位 - 沢田研二『勝手にしやがれ』
36位 - CHAR『気絶するほど悩ましい』
47位 - 石川さゆり『津軽海峡冬景色』
48位 - 岩崎宏美『熱帯魚』
49位 - 新沼謙治『ちぎれたペンダント』
54位 - 森田公一『過ぎてしまえば』
79位 - ピンク・レディー『カルメン'77』

 阿久悠、恐るべし! 
 ただぼくがここでポイントに置きたいのは、歌詞のバリエイションである。(おそらく)昼夜なく原稿用紙に向かい注文をこなしていた当時のこのヒット・メイカーは、短い期間に「ウォンテッド」から「宇宙戦艦ヤマト」、あるいは「津軽海峡冬景色」すら書き下ろしているのである。すごい、という以上に、どこか狂ってる。まったく尋常ではない<阿久悠in 70's>なのだ。
 阿久悠が住まいした歌謡曲の世界は、注文制である。同時に一つのキャラクターを持つ歌い手に、複数の会社・スポンサーの生臭い都合をブレンドさせた上で完成させなくてはならない「非芸術性」を作家は求められる。売れてナンボ。みんながこれで美味しいメシを食べて、全員がいい思いをしたいという「共同プロジェクト」の一部として作詞家が存在する。
 こういった「歌という名の商売」のカナメを了解しながら、まったくのノンジャンルで、様々な注文に対して売れる言葉を一気に書き上げられるというのは、ぼくのような凡庸な人間には「この人、狂ってる」としか表現ができない。
 あくまでタトエでしかないけど、かのジョン・レノンやディランにしたって自分の世界だけを考えてりゃ良かったのだが、阿久悠は同じポップ・ミュージックに生きた人だとは言っても、まるで立脚点が違うのだ。
 それで、作詞家・阿久悠を感じる上で最良のアルバムといえばボックス・セット『人間万葉歌』(ビクター)になるが、ここに興味深い彼の文章が引用されている。文字通りモンスター・ヒット・マシーンと化した時代のピンク・レディーのことである。
「歌になる素材というのはかなり限定されているが、この時期のピンク・レディーなら、どんな物でも歌に出来るような気がしていた。実際には書かなかったが、"グレートレース"や"ハタリ"や"海底探検"や"大統領選挙"や、そういったものまで予定に入っていた」(阿久悠、和田誠共著『A面B面 作詞・レコード・日本人』から)
 なんだかよくわからないが"オリンピック中継"も彼女たちの歌にしたかったのそうだ。
 アドレナリンが全身を駆け巡り、行っちゃえ行っちゃえー!の疾走時代が阿久悠にはあった、ということだね。おそらくこれは、ドラマチックに悲しいド演歌の諸名作を書き下ろす時なんかも同じだったんじゃないだろうか。
 言葉のアソビをガンガンやっても、(阿久悠のような選ばれた才人には)許された時代。日本の音楽業界もメディア全般も、良くも悪くもいろんなことにバカに面白がれた(最後の?)時代。
 ……そんなことが長く続くわけはない。
 阿久悠も「はっ」と夢から醒めたのが、社会もみんなも、「オトナ」にならざるを得なくなった時代、すなわち80年代だったんじゃないだろうか。
 あの懐かしいニッポンの少年たちを描いた『瀬戸内少年野球団』を彼が書き上げたのは、1983年のことだった。
(2007年8月2日)

( 2007/08/02 )

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