あの昭和20年:日本の敗戦と世界の音楽
文・藤田正
 
 いつもの「夏」がやってきました。
 太平洋戦争が終わりを告げたあの夏、です。
 今年もまた…いや、日本国首相による靖国神社参拝の是非、北朝鮮によるミサイル発射事件、レバノンで起こっている戦争、沖縄や岩国ほかで展開される米軍基地再編成問題などを考えると、私たちは今、「戦争」というコトバを以前にも増して意識せざるを得ないのかも知れません。
 今回は、日本にとって再出発の時であった昭和20年、西暦に直せば1945年前後の世界の音楽にはどんなものがあったのかを、特集してみようと思います。
 何事も一面的に、思い込み激しく考えてしまうと、人間はあらぬ方向へ進みがちなものです。あの終戦のあの時期とは何だったのか、当時の世界のいろんな音楽から眺め直してみるのも、今のような「なんだか騒がしい季節」にはいいのかも知れません。
 
 
<1>兵士を慰めるためのスペシャル・プレゼント、V-Disc:
 
『V-Disc Recording Parties』
 戦時下にある兵士にとって、大きな憩いとなるのが芸能人たちによる「慰問団」です。
 かつての日本でも漫才さんや歌手など、多くの人たちが戦地に赴いたことが知られています。
 有名なところでは吉本興業の慰問団「わらわし隊」、「青い山脈」「長崎の鐘」ほか戦後の大ヒットで知られる藤山一郎らが参加した南方慰問団…このほか各地の芸妓さんたちにも声がかかり、彼女ら彼らは慰問隊の一員となりその芸を披露したのです。
 アメリカ軍にも同様の慰問があります。お色気たっぷりのセクシー・アイドルや、1954年でいえば、日本から帰国の途中のマリリン・モンローが、米・極東司令部の求めに応じて在韓国の米軍駐屯地を10箇所以上も巡演したのは有名です。
 第二次大戦中、アメリカにはV-Disc(ヴィ・ディスク)というSP盤シリーズがありました。生身の慰問団ではありませんが、これは海外にいる兵隊たちを大いに喜ばせた「音楽の慰問」でした。
 Vディスクの「V」とは、もちろん「ビクトリー」の頭文字。
 アメリカ政府からの依頼により、ジャズからクラシックまで、トップ・クラスのミュージシャンがレコード会社の契約とは関係なしに集まり、数々の名セッションをこの「海外にいる兵士のための特別レーベル」に記録したのです。
 ジャズの世界でVディスクと言えば、今でも貴重な音源として有名です(制作されたのは43年から49年まで)。
 このレーベル、トミー・ドーシーやらグレン・ミラー、カウント・ベイシーなどと、白人黒人問わぬ人気者がずらりと顔を揃えて素晴らしい演奏を録音したことでも知られていますが、この録音にはもう一つ重要な側面があります。
 つまりこの時期というのは、アメリカでは有力な音楽家組合による歴史的な大ストライキと(一時期ですが)重なっていたからなのです。ストは1942年から44年、足掛け3年間続きましたが、これを知った米軍が、海外にいる兵士のためだけに録音させてほしい、と申し出たことがVディスクのシリーズにつながりました。このストライキが終わり、アメリカの音楽業界はさらに再編され、世界的に大変な影響を及ぼすにいたります。
 つまりVディスクがなかったら、20世紀アメリカン・ミュージックの重要な部分がスッポりと抜け落ちていた! とも言えるわけです。なにしろ1940年代といえば、20世紀におけるアメリカ音楽がいよいよ充実してきた極めて重要な時期だったからです。
 …しかし、世界的な大戦争をしている真っ最中に、米国内では4大メジャーのレコード会社に向かって、俺たちミュージシャンの要求を呑まないと録音なんかしない! と言って長期にわたる実力行使に出る人たちがいたというのは、当時の日本とは大きな違いです。

amazon-『V-Disc Recording Parties / Bobby Hackett & Bob Haggart』
 
 
<2>禁止されたジャズをつかって…ジャンゴとモンタンのパリ
 
『ヴェリー・ベスト・オブ・
ジャンゴ・ラインハルト』
 1944(昭和19)年といえば、太平洋戦争において、南方における日本軍の一大拠点だったトラック島がアメリカ軍によって攻撃され、たくさんの戦艦や戦闘機そして人命を失った時です。それは2月17日、18日のことでした。
 トラック島空襲のあと、サイパン島、テニアン島、グアム島などで次々に日本軍が玉砕することになります。
 では日本軍が追い詰められて行った南洋でのこんな緊迫した時期、フランスはどうだったでしょうか。
 フランスにとっての44年は、「パリ解放」の年でもありました。1940年、ナチス・ドイツの侵攻によってパリが陥落し、「花の都」はジャズすらも禁止されることになります。そして44年6月6日、ノルマンディ上陸作戦開始、同年8月25日、市民のレジスタンスと自由フランス軍の手によってパリは解放されるのです。
 この「抵抗」の時期、フランスを初めとして多くのヨーロッパ人が口ずさんだと言われているのが、ロマンチックな甘酸っぱいメロディの「雲」でした。
「雲」は、ロマ民族(別名、ジプシー)のギタリスト、パリを拠点の一つとしたジャンゴ・ラインハルトの代表作です。ジャンゴは驚異の早弾きプレイヤーでもありましたが、驚くべきことにその左指は、ロマ・キャンプでの出火によって大怪我を負ったため3本しか使えなかったのです。
 ナチス・ドイツによってユダヤ人と同じように徹底した弾圧を受けたロマ。その哀切を、(禁止されていた)ジズの手法を借りながら、独自の世界を切り拓いたのがこの才人でした。
「雲」はそんな人物だからこそ作りえた、名作だと言えるかもしれません。
 ドイツの占領下にあったフランスのパリで、もろにアメリカ/ジャズ・エイジをイメージさせた舞台で大センセーションを巻き起こした男がいました。
 そう、シャンソンを代表するシンガーとして知られるイヴ・モンタンです。
 彼はパリのミュージック・ホールに出演した時(44年2月18日)、テンガロン・ハットで格子柄のシャツというファッションで舞台に立ち、観客に向かって「ヘイ、ボーイズ!」と英語で呼びかけたそうです。
 ナチス・ドイツの睨みがきくパリで、こんな大胆な行動に出たモンタンは、その半年後の「パリ解放」の喜びを、戦後シャンソンの繁栄を予言していたと歴史的に評価されています。
 ちなみに若き日のイヴ・モンタンは、「ザズー」(ジャズかぶれ)と言われたそうですが、その後、庶民派、労働者階級のために歌うシンガーとして、さらに大きなステップを踏み出すことになるのです。
 
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<3>ナガサキから発信される永遠のメッセージ:
 
『歌は美しかった
〜オリジナル歌手による名曲集〜
長崎の鐘』
「なぐさめ はげまし 長崎の あゝ 長崎の鐘が鳴る」(「長崎の鐘」)
 8月9日は、歴史上、実戦で核兵器が使われた二度目の日です(投下時刻、午前11時2分)。
 一度目とは、もちろんその三日前、1945年8月6日(午前8時15分)の広島への原爆投下です。
「ヒロシマ・ナガサキ」へ落とされた二発の爆弾は、人はなぜ人を殺すのか、その最も残酷な実例を示したのです(なぜ日本に投下されたのか…そこには厳然とした人種差別が存在し、この差別は、アラブ人に対する殺戮行為に見るように今でも欧米白人社会には生きています)。
 長崎では、当時、約24万の人口のうち、14万8千ほどの人々が死傷したとされています。そして、昨年(2005年)の8月9日の時点で、原爆死没者名簿に載った方々の総数は、13万7339人。空から落とされた爆弾が、言葉で言い尽くせない悲劇を生み出したのです。
 その長崎の被爆者の一人に、永井隆という医学博士がいました。永井先生が被爆したのは彼が在籍していた長崎医科大学ででした。奥さんは自宅で即死。先生も重傷を負いました。しかし自分自身の状態も省みず、先生は学生たちと共に救護活動に入ります。
 敬虔なキリスト者でもあった永井隆博士(長崎市名誉市民)の命を賭けた活動は、長崎から発信される「核兵器廃絶」「世界平和」の大きな起点ともなりました。
 長崎原爆資料館のホームページには、永井隆について、次のように紹介しています。
「永井隆は、助教授をつとめる長崎医科大学附属医院で被爆した。自らも重い傷を負ったその直後から、負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組んだ。やがて、彼の思いは医師としての役割から、長崎の町の文化の復興、そして平和の願いへと広がっていく。被爆以前から患っていた白血病が次第に悪化するが、病床についてからも、執筆活動を通してその実践を貫いた。被爆から6年の命だったが永井隆の足跡からは、平和への切実な祈りが聞こえてくる。」
 この永井先生が、重い病に苦しみながら書き上げ、1949(昭和24)年に出版したのが『長崎の鐘』でした。長崎の鐘とは、原爆によって廃墟と化した東洋一の大聖堂、浦上カトリック教会の天主堂にあった鐘のことです。
 この本は瞬く間にベストセラーとなり、同じ49年には、戦前からのスター・シンガー、藤山一郎による「長崎の鐘」も発売され、これも大ヒット、続けて翌50年には映画化もされたのです。
 ヒット曲「長崎の鐘」を作詞したのは詩人のサトウハチロー。彼も戦争で3人の兄弟を、そして広島では原爆投下によって二つ年下の弟も亡くしています。サトウはこの詞の依頼に際して、神さまが書けと命じているんだ、という運命めいたものを感じたそうです。
 平和を望む歌、戦争を憎む歌は、ここ日本でも数多く作られ歌われてきましたが、「長崎の鐘」は、太平洋戦争以後の、日本の歌(メッセージ・ソング)の出発点となった一曲ということもできるでしょう。(永井氏は、1951年に死去。享年43歳)
 
「新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘」(藤山一郎が、病床にある永井先生を見舞い、この歌をうたった時、返礼として氏が贈った短歌)
 
amazon-『歌は美しかった〜オリジナル歌手による名曲集〜長崎の鐘』
 
 
<4>昭和20年代は、世界のポップスにとっても変節点だった・1 
 
『ブンガワン・ソロ』
 昭和20年は、日本にとっては大きな歴史の変節点でした。
 何もない廃墟と化した町から復興が始まり、文字通りの奇跡的な経済的な発展を遂げたのが日本です。昭和20年代はその出発点なわけですが、世界のポップ・ミュージックも激動期だったのです(その例は、最初の原稿を参照ください)。
 わがアジアでは、テレサ・テンらで有名な「何日君再来」(ホーリー・チュン・チャイライ)と並ぶ東南アジアを代表する名曲「ブンガワン・ソロ」が、インドネシアで生まれています。
「何日君再来」(最初の流行は昭和15年=1938年ころ)も、のちの台湾&中国本土との間の政治的な軋轢にもまれた名作でしたが、「ブンガワン・ソロ」も単なる流行歌ではなく、同国の独立と共に歩んだ歌でした。
 この歌が生まれたの1940年のこと。ソロ(現在のスラカルタ)に生まれたグサン・マルトハルトノによって作られました。題名はジャワ島最長の「ソロ河」のことで、この河の流れを美しいメロディで歌い上げていますが、ここにはインドネシア独立への願いが込められており、オランダの植民地であった同国で広く口ずさまれたといわれます。
 面白いのことに(?)、地元の文化にさほどの興味を示さなかったオランダと違い、42年、この地域(オランダ領東インド=現在のインドネシア)に侵攻してきた日本軍は、音楽を「割合に大切にした」(評論家・中村とうよう)そうです。この歌を作ったグサン氏も、インドネシアを巡回した日本兵の慰問団に加わっていたそうで、こういうことが縁となり、「ブンガワン・ソロ」は、藤山一郎、松田トシらによって日本語で録音されます。そしてついには、アジア諸国から取り入れられた歌としては、日本最大のヒットとなったのです。
 
amazon- 『ブンガワン・ソロ/ヌニンほか』
 
 
<5>昭和20年代は、世界のポップスにとっても変節点だった・2
 
『ストーリー・オン・ダイアル Vol.1
/チャーリー・パーカー』
 戦争特需。日本では、太平洋戦争の後に起こった朝鮮戦争が経済発展の大きなきっかけとなりました。
 地球の裏側、ブラジルやアルゼンチンも、第二次大戦中、特需が起こり、その後押しで音楽も活況を呈したといわれています。
 ブラジルでは、ショーロというエレガンスなシティ・ミュージックがほぼ完成されたのが1940年代の半ばだといます。ショーロは、のちに世界的なブームとなるサンバやボサノバの土台をなす重要な音楽なのです。
 アルゼンチンでは、ブエノス・アイレスで生まれたタンゴが「黄金の40年代」「タンゴが一番に幸せだった時代」と言われるまでに成長します。 これらは、第二次世界大戦中、ヨーロッパが戦場と化したために、両国から鉱山資源や食料がたくさん輸出されたことが背景にあります。社会経済的な余裕が、音楽に発展を促しました。ブエノス・アイレスのような都市では、ダンスホールに毎晩、フトコロぐあいのいい人たちが大挙してつめかけるようになり、ラジオでは連日、高名な楽団や歌手がたくさん登場して優れた音楽を披露したのです。
 タンゴでは、フアン・ダリエンソ、アニバル・トロイロ、カルロス・ディ・サルリなどの新進のタンゴ楽団が登場してきたのもこの頃でした。
 同じ頃、アメリカでは、チャーリー・パーカーやディジ・ガレスピーらによる、ジャズのバップ革命が起こっていました。その隣りには、のちのソウル・ミュージックの母体となるブルースや、リズム&ブルースが一大勢力となり、彼らを支える小さな独立系のレコード会社もたくさん生まれきます。そうです、今、どこもかしこもインディーズだ、うんぬんと言っているそのルーツも、ここにあるのです。
 アメリカの白人ボーカルの筆頭に名乗り出たのが、フランク・シナトラ。彼は、今ではどこでも当たり前のようになっている、いわゆるソロ・シンガーという存在を確立した歴史的な人物です(その前の歌手とは、楽団のお付きや、ラジオだけで歌いかける、といったスタイルが普通だった)。
 そしてキューバ。スパニッシュ・ラテンの牙城だったキューバでは、世紀のダンス音楽、マンボが生まれます。
 マンボはキューバのハバナからニューヨークへ、メキシコへと伝播し、あっという間に日本にもやってくるのでした。マンボを世界的にした有名にした功労者としては、ペレス・プラード(あ〜ウッ、の掛け声の人)、そしてザビア・クガートがいます。
 
amazon-『ストーリー・オン・ダイアル Vol.1/チャーリー・パーカー』
 
 
*この原稿は、毎日放送「はやみみラジオ 水野晶子です」(月〜金 午前6:00〜7:45)の「音楽いろいろ、ちょいかじり!」に書き下ろしたものを再構成しました。2006-08-07〜08-11放送。

( 2006/08/15 )

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