MBS「はやみみラジオ」から:「テレサ・テンという人生」
ポリドール
 テレサ・テンは、現代アジアを代表するシンガーとして、日本でもようやくその評価が固まりつつあるようです。今回は、数奇な人生を歩んだ歌姫について語ることにします。
 ちなみに2005年5月8日は、彼女の10回目の命日でした。10周忌をきっかけに、日本でもジャーナリストの有田芳生(ありた・よしふ)が<10年目の真実!>と謳ってルポ『私の家は山の向こう―テレサ・テン十年目の真実』を発表し、また豪華なボックス・セット『テレサ・テン 歌姫伝説』が発売されたりと、いくつもの記念企画が世に出ました。
 では今でも人気を失わないテレサ、その短い人生とは…。

 テレサ・テンは、1953年1月29日、台湾雲林県龍岩村(台湾中部)に生まれました。
 小さい頃から歌はとても上手で、美空ひばりの「りんご追分」などを歌って、周囲の大人を驚かせたという逸話も残っています。
 ユニバーサル・ミュージックのホームページによると、「麗君」の読みは、北京語では「デン・リーチュン」、広東語では「ダン・ライグァン」となるそうです。
 中国圏以外での芸名、すなわちテレサ・テンは、彼女のクリスチャン・ネームである「テレサ」を日本デビュー時にそのまま採用したもので、これはあの「マザー・テレサ」に由来しています。

 テレサ・テンは、大陸出身(外省人)の、軍人の家庭に育ちました。この出自が、彼女の歌手としての出発点と言ってもいいかも知れません。
 1949年、台湾・国民党政府は北京語を国語と定め、ためにその後、北京語の「国語歌謡曲」を歌うシンガーが続々と登場します。
 特に少女歌手のほとんどは軍関係の家庭出身、すなわち外省人の子どもたちでした。彼女たちは家庭環境の影響で、北京語を上手にこなすことができ、多くは貧しい暮らしを強いられていた……そんな中から世に出た一人が、テレサ・テンだったわけです。
 彼女は13歳の時に中学を2年で中退し、本格的な歌手の生活に入ります。つまり、義務教育を終了することなく、一家を支えるためにプロ・シンガーの生活を選んだのでした。
 1967年、14歳で台北の一流クラブ「巴黎(パリ)」と契約、ここで70日間のロング・ランという立派な記録をうち立てます。この時期は、欧米のポップ・ソング「悲しき雨音」や「日曜はダメよ」なども人気のレパートリーだったといいます。
 テレサ・テンはここから一気に大スターへの道へ進み出します。すなわち、全世界の華人社会を結びつけた歴史上初めての歌手へと、成長していったのです。
 例えば、その後の彼女に当てられたキャッチ・コピーには、以下のようなものがあります。
「全球13億熱愛的巨星」:全世界のチャイニーズ、13億人が愛する大スター。
「両岸歌后」:対立する台湾(中華民国)と大陸(中華人民共和国)の二つの中国でも、大衆の間では同じように大スターだったので、こうも言われました。

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 そんな彼女が、日本で初めてレコードを出すのは1974年のことです。
 テレサ・テンが日本でデビューする少し前から、同じ台湾出身の歐陽菲菲(オーヤン・フィフィ)が「雨の御堂筋」(1971年)を大ヒットさせていました。歐陽菲菲は、故郷ではジャズや欧米のポップスを歌って人気のあった女性です。
 もう一人、香港出身のアグネス・チャンもすでに人気者になっていて、テレサ・テンはチャーニーズ系シンガーとしては彼女たちに続く存在でした。
 1974年、日本での第2弾シングル「空港」が大ヒットし、日本レコード大賞新人賞ほか、多くの新人賞を受賞します。彼女は、その優しい柔らかな歌声で、演歌スターの仲間入りを果たしたのでした。
 順風満帆のテレサ?……確かに最初の数年はそうです。ですが、しばらくして事件が起き、彼女は国外退去を命じられます。それはテレサ・テンが台湾に生まれ、なおかつ国際的な活動をしていた存在だったからこそとも言えるスキャンダルでした。
 ……先ほどテレサの名前に触れましたが、彼女のクリスチャン・ネームである「テレサ」を使い、ファースト・ネームの「」は、北京語だと「デン」ですが、これを欧米風の響きを持たせて「テン」としたのが「Teresa Teng」です。二つの芸名を持つというのも、世界の色んな所にチャンスを求めて出かける中国人らしい国際性の表われでしょう。でも、その陰の部分もあります。
 テレサの場合、それが表面化したのは不正なパスポートの取得でした。テレサ・テンは、1979年、いよいよこれからという時期に、自国台湾ではないパスポートを使ったとの理由で、日本から国外退去となったのです。
 有田芳生氏は前掲書の中で、
「台湾が国際的に孤立していた当時、政治家や財界人が中華民国のパスポートに加えて、アメリカやカナダなどのパスポートを持つことがあった。暗黙のうちに認められていたのだ。ところがテレサのような芸能人が二つのパスポートを持つことは珍しかった。台湾の歌手が外国でコンサートを開くことなどほとんどかなったからだ」(70ページ)と書いてます。
 煩雑な手間を省くために、悪意なくもう一つのパスポートを使っていたテレサ・テンだったようです。だが法律に反していたことに違いない。彼女は日本から退去となり、そして日本での活動は休止状態に陥ります。
 見た目はあんなに可愛い人なのに、実際はずいぶん怪しい人なんだね…などという冷たい視線が彼女に投げかけられたことを思い出します。

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 でもテレサ・テンは復活します。
 彼女は再び甦り、150万枚という大ヒットを飛ばすのは、日本でのデビューから10年もたった(!)、1984年のことでした。
 歌は「つぐない」。 テレサ・テン、31歳。歌は彼女の優しい声に、ぴったりでした。
 荒木とよひさ作詞、三木たかし作曲、そして歌がテレサというゴールデン・トリオの完成です。
 愛くるしく、いやみなく、男にとって控えめな女性……こういうイメージを打ち出したシンガーは、日本の演歌系には、いるようでいない唯一の存在だったはずです。
「つぐない」は、日本有線大賞、全日本有線放送大賞、共にグランプリを受賞します。
 数字で言えば、「つぐない」が150万枚、その後の「愛人」(1985年)も150万枚、翌1986年の「時の流れに身をまかせ」が200万枚のヒットとなります。
 83年には、母国で不朽の名盤『淡淡幽情』(タンタンヨウチン)もリリースしています。『淡淡幽情』は彼女も制作に加わった中国伝統歌謡の美しさを見事に表現した作品で、これを聞けば演歌スターとしてのテレサ像が彼女の一面でしかないことがよくわかります。
 蛇足ですが、日本での有名なヒット「愛人」は、ビートルズで有名なロンドンの「アビー・ロード・スタジオ」の改築前、その最後に録音された歌です。しかしこの「愛人」という歌、歌詞を見ると、時代が違うな〜と思いませんか? テレサは「日陰で、必死に耐える女」にとっての、本当はどろどろした愛憎の世界を、サラリと上品に歌い切ることのできる歌手でしたが、それにしてもこの「愛人」の世界!……歌詞にある「私は待つ身の女でいいの」なんて、今では(少なくとも歌の世界では)もはや通用しません。

 さて、この時期(80年代半ば)のテレサ・テンは、まさに光り輝く存在でした。
 世界のチャーニーズ・コミュニティでもそうです。例えば、香港コロシアムでは、83年に連続6日間コンサートを敢行します。彼女はここで観客動員数が10万人という大記録を打ち立てます(香港返還前の時代に、なんと大陸からの観客が2割も駆けつけました)。
 テレサ・テンは「中国の昼は小平が支配し、夜は麗君(デン・リーチュン)が支配する」とすら言われたほどに人気となり、ついに彼女のすべての歌は大陸においては、堕落し「卑猥にすぎる」と全面的な禁止の憂き目に遭うまでになります。
 つまりテレサ・テンは、中国人社会ではあまりにもビッグになり過ぎて、その存在自体が「政治的」になっていたのです。
 政治的といえば、テレサ・テンの重要な持ち歌の一つである「何日君再来」(ホヲリィ チュイン ツァイ ライ)はその最たるものでしょう。この歌は、日中戦争の時代から現代中国に至るまで、政治の思惑に揺り動かされてきたことで知られる名曲ですが、台湾の大スター、テレサ・テンが取り上げたことで新たな憶測を呼びました。
 すなわち、歌の主題である「君がいつ帰ってくるのか?」という「君」が誰(恋人? 敵対する軍隊?)を指し示すかと、中国当局なりに解釈し、歌は禁止の処置が取られました。戦中・戦後では渡辺はま子が日本でヒットさせた歌だということもあり、これをカバーしたテレサ・テンには何か思惑がある……「君」とは、台湾・国民党軍のことではないか? というのが中国大陸側の解釈だったようです。「軍」は、中国語の発音では「君」と同じ「チン」でもあります。
 しかしテレサ・テンの歌声は、中国本土で無数にコピーされた海賊カセットなどで深く静に流通していたことも、よく知られています。素晴らしい歌声は、政治的抑圧でなかなか止められるものではないようです。
 ちなみにこの歌だけで、次のような本があります。『何日君再来物語』(中薗英助・著) 、『何日君再来 いつの日きみ帰る ある大スターの死』(平路・著)。

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 質問です。日本でテレサ・テンの本格的なコンサートって、何回ほど開かれたでしょうか。
 答え:一度だけ。1985年12月15日、会場は東京のNHKホールでした。
テレサ・テン Last Conert』というアルバムが出ています。そう、フルコンサートとしてはこれが最初で最後のナマのテレサ・テンでした。
 台湾、香港、ベトナムなど各地でコンサートを成功させてきたテレサ・テンでしたが、頂点を極めた彼女は、ライブ・シンガーとしてよりも、レコーディング・アーティストであることを望んでいたようです。
 例として、彼女の全盛期をレコーディング・プロデューサーとして苦楽を共にした西田裕司(にしだ・ひろし)氏による『追憶のテレサ・テン』(サンマーク出版)によれば、
「テレサのレコードシンガーとしてのこだわりは強かった。曲が売れていく過程で、多くの人に曲を聴いてもらうためには、テレサはテレビ番組に出たり、ステージに立つことを喜んだ。
 けれど、それは決しテレサの最終目的ではなかったのである。最終的にはレコードシンガーに徹することが、彼女のめざしていたスタイルだった」(106ページ) 
 こういった姿勢を示す一つの典型が、89年のシングル「香港〜Hong Kong〜」でした。
 西田氏によれば、この1曲の録音を完成させるために、「もう4000万円以上の予算をつぎ込んでいる」(171ページ)! 
 この金額は、いかにテレサ・テンと言えども、にわかには信じられない異常な出費です。
サラリーマンの西田のクビが軽く飛んでしまいそうな、穏当に考えればテレサ・テンはそれだけ、いい作品づくりに執着した、ということなのでしょう。
「恋でも食べ物でも、何でもそうだが、テレサには凝り性なところがあった。ひとつのことに夢中になると、もう何もかもそれに注ぎ込んでしまうのだ」(同ページ)
 そして、レコーディング・アーティストとして、新たなステップを歩もうとしていた頃、「天安門事件」(89年)が発生します。
 テレサは、両親が生まれた国が示した学生や労働者への弾圧にショックを受け、民主化支援のために立ち上がります。集会でハンドマイクを持つテレサの姿は日本のテレビでも流れました。彼女は自由とは何か、私は何をすべき人間なのかを、この事件を画期に深く考えるようになっていきました。
 つまり、プロ・シンガーとしての目立った活動が少なくなった。反対に、一人の人間として生活できるパリやタイなどで恋人と過ごす時間が増えてゆきます。
 彼女の歌ではないですが、ある時点まで「時の流れ」に乗って歌手としてのお頂点までたどり着き、次に「自分らしい時(と場所)」を作ろうと大幅な軌道修正をしたジョン・レノンと、テレサとは似ている、と言えるかも知れません。ただテレサは、彼女自身が熱望していた自己の総合プロデュースによる歌手生活を実行する直前に、病に倒れます。そこがジョン・レノンと異なるところでした。

 1995年5月8日、タイのチェンマイでテレサ・テンは帰らぬ人となります。持病の気管支喘息が悪化したためでした。
 大好きだったチェンマイの高級ホテルで、彼女は倒れたといいます。42歳の若さでした。
『私の家は山の向こう』を書いた有田芳生によれば、薬の副作用も原因だった、という現地の医師の判断を紹介しています。テレサは、過度に使用すると心臓に大きな負担をかける吸入式気管支拡張薬を使っていました
 晩年のテレサは人前に出ることが目立って減っていたこともあって、死因についても根拠のない憶測が乱れ飛びました……謀殺説=台湾政府のスパイだったから/麻薬説=タイのリゾートで年下のフランス人の恋人と一緒におり、体に奇妙な斑点があるから……といったぐあいです。
 彼女はその前にも、何度か死亡説が流れました(91年には日本のメディアでも)。 
 それもこれも晩年は歌手としての目立った活動がなかったからでした。
 新曲は出してもポツポツとであり、今からすれば、「時の流れに身をまかせ」が日本では最大のピークでした。その後、これまでお話したように彼女はメディアに顔を出すことを控えるようになったのです。
「時の流れに身をまかせ」は、1986(昭和61年)2月に発売され、200万枚というモンスター・ヒットとなった歌です。この年は、日本有線大賞、全日本有線放送大賞、共に史上初3年連続グランプリを受賞、また日本レコード大賞の金賞も受賞します。
 ……しかしテレサ・テンは、こういったヒットに次ぐヒットという華やかな生活を辞して、「アーティスト」への道を進みたかったのでしょう。
 でもその「力」も「方法」も、十全な形ではついに生み出すことはできなかった。
 ミュージシャンとして、志半ばで病に倒れてしまった、テレサ・テンだったと思います。

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<参考書籍>
有田芳生著『私の家は山の向こう テレサ・テン十年目の真実』(文芸春秋)
平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』(晶文社)
西田裕司著『追憶のテレサ・テン』(サンマーク出版)
宇崎真、渡辺也寸志著『テレサ・テンの真実』(徳間書店)

*この原稿は、毎日放送「はやみみラジオ 水野晶子です」(月〜金 午前6:00〜7:45)の「音楽いろいろ、ちょいかじり!」に書き下ろしたものを再構成しました。2005-05-02〜2005-05-06放送。

( 2005/12/22 )

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