映画『瞳の奥の秘密』:現代アルゼンチンでいまも燃える「汚い戦争」の怨念
 うまいね〜、この役者たちは!   
 一九七〇年代のアルゼンチンのヤバい政治状況を知らなくても「映画それ自体」がぼくらを結末までリードしてくれる。「綿密に練られた脚本、緊張感溢れる映像、力強い演出と三拍子揃った」と宣伝パンフに記されているが、これにウソはなく、本年度のアカデミー賞「最優秀外国語映画賞」を獲得したのも納得の作品だった。
 
c2009 TORNASOL FILMS-HADDOCK FILMS-100 BARES PRODUCCIONES-EL SECRETO DE SUS OJOS(AIE)
 
 主人公は刑事裁判所を定年退職した元書記官(リカルド・ダリン)。彼は、二五年前に担当したある殺人事件のことが忘れられず小説化を試みる。これが物語のきっかけだ。
 一九七四年にブエノスアイレスで発生したこの女性惨殺事件を振り返るべく、彼は元の上司であり、今も恋心を捨てることのできない検事(ソレダー・ビジャミル)に草稿を携え久しぶりに会いにでかける。そして二人は、若き日の様々な出来事を思い出してゆく。
 事件があった七〇年代半ばから、映画としての「今」まで、アルゼンチンは、いわゆる「汚い戦争」によって軍事独裁政権による労働者や学生たちへの大弾圧がめんめんと続き、加えてマルビーナス戦争(=フォークランド戦争、八二年)が勃発するなど国家が非常に不安定な時代だった。
「汚い戦争」は一説として七六年から八三年までとされるが、行方不明者が三万人にも達するとも言われ、「戦争」はこの時期だけに終わることなく、犯罪人の追及が今も行なわれている(〇五年、同国最高裁は拉致や殺害に関わった元軍幹部らのために制定された「恩赦法」を違憲と判断し、国内外の批判に応えようとしている)。
 映画の主人公であるベンハミンや上司のイレーネは、つまるところこの「汚い戦争」時代の法の番人であって、たくさんの労働者たちが拉致され拷問を受けている現実を尻目に(あるいはその現実におびえながら)、彼らは刑事事件の解決という「日常」を送っているのである。
 
c2009 TORNASOL FILMS-HADDOCK FILMS-100 BARES PRODUCCIONES-EL SECRETO DE SUS OJOS(AIE)
 
 しかしながら、現代アルゼンチン最悪の汚点の一つであるこの大弾圧を、フアン・ホセ・カンパネーラ監督は直接的に映画へ取り込もうとしなかったのがアルゼンチン国内で大ヒットした一因だったとぼくは思う。失政だらけのイサベル・ペロン政権から軍事独裁政権へ移行するこの暗い時代、殺人者としてようやく逮捕したはずの男(ハビエル・ゴディーノ)が、なんとテレビの向こうに大統領の側近SPとして映っているではないか……という設定がいい。犯人ゴメスは、反政府ゲリラの情報提供者として政府中枢に迎えられ、刑事裁判所の書記でしかない主人公ベンハミンを恐怖の底に陥れる。はたしてベンハミンの相棒(ギジェルモ・フランセージャ)は凶弾に倒れる。
 アルゼンチン国民なら誰もが知っている、あるいは分かっている未だ生々しい血塗られた真実。それは不正と腐敗と暴力だ。これらを、物語を統一する薄暗い闇のトーンとして使いながら、映画は、幸せの絶頂にあったあの七四年、妻を惨殺された夫(パブロ・ラーゴ)の、ひたむきすぎるとも言える妻への追慕、すなわち瞳の奥で燃え盛る炎の本質へと向かってゆく。
 ソレダー・ビジャミルの、拒絶も不機嫌も、ほとんど顔を変化させることなく表現してしまう力量がすばらしい。逞しい書記時代のベンハミンと、老いをかかえた「今」の主人公とを演じ分けるリカルド・ダリンも右に同じ。この二人が、犯人ゴメスを詰問するシーンもいい。ついに犯人が怒りに狂い出すシーンのハビエル・ゴディーノの異常者としての表情の変化! アルコールに浸り切る相棒の、その破綻ぶりを演じるフランセージャも、うまい。
 そしてラスト。犯人は「今」どこに?
「汚い戦争」の犠牲者の激烈な怨念は、このラストに投影されているはずだ。
文・藤田正(初出:『週刊金曜日』2010年8月27日号)

*『瞳の奥の秘密』公式サイト http://www.hitomi-himitsu.jp/

( 2010/09/23 )

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