文・藤田正
<6>「スター誕生!」第1回決戦大会の優勝者は、
森昌子
作詞家・阿久悠の世界を探って、ちょいかじり。「其の二」は、日本のアイドルの出発点…と言っていいかもしれません、テレビ番組「スター誕生!」(NTV系列)です。阿久悠は、この番組にも深くかかわった人でした。
あのオーディション番組を振り返って、彼は次のように書いています。
「自分で企画して、一九七一年から十二年、審査員をやった。あれがなかったら、おそらくアイドル系の歌手の歌を書くことはなかっただけではなく、僕が作詞という仕事じたいを続けられたかどうか疑わしい」(『書き下ろし歌謡曲』岩波新書)
企画を立てたのも番組の名前を考えたのも、そして相当数のアイドルたちの作詞をつけたのも阿久悠でした。
記念すべき第1回決戦大会を勝ち抜いたのが、当時13歳だった
森昌子。彼女は、桜田淳子、
山口百恵らと共に同じ番組からデビューし、「花の中三トリオ」の一人として人気を集めます。彼女のデビュー曲「せんせい」(72年)も、もちろん作詞は彼(作曲は遠藤実)。ちなみに「せんせい」は、子どもが歌える「ジュニア演歌」のようなテーマはないか?と考えて作った歌なのだそうです。
阿久悠が歌謡界の第一線に登場した70年代初頭というのは、ポップ・ミュージックの内実が激変していた時でした。フォークやロック出身の、旧来のレコード・ビジネスとはまったく異なった考え方を持った若いシンガー/作詞作曲家が台頭した時期であり、彼らは、歌手や作家陣はレコード会社のお抱えであるという旧構造とは遠い場所から現われました。阿久悠も、こういった業界内部の変革、あるいはシステム再構築の時代に才能を開花させた一人だったと言えるでしょう。阿久悠との名コンビで知られる都倉俊一、森田公一、村井邦彦などの作曲家たちも同じです。そして時代は、テレビが社会に相当な影響力を持ち始め、同様に広告代理店という業種も新しいステップに踏み入れていました。阿久悠も東京の広告代理店に勤め、一人のサラリーマンとしてテレビ、ラジオなどの放送媒体と深く関わるようになっていったのです(この時代に名を成したカメラマン、デザイナー、イラストレイター、画家、小説家といった人たちの多くも、同じように出発点は「阿久悠的」でした…あたりまえですけど)。
阿久悠がテレビ番組「スター誕生!」の中枢にいた、というのは、こういう構造の上に立ってのことです。「才能ある作詞家」だけでは、彼は単なる番組のゲストでしかありません。企画の発端から、ニュー・フェイスをいかにして売れっ子の歌手に仕立てるか…そしてそのプロジェクト全体を俯瞰し実行に移すことができた人物、それが阿久悠という存在でした。
新興勢力の台頭が古い構造を変えてしまう。ビートルズの来日で行なわれた「実験」もそうでしたが、阿久悠に象徴されるニッポン芸能ビジネスの変革も、渡辺プロ全盛から、70年代は堀プロなど新勢力の伸張を経て今につなってゆく。「原点」は阿久悠の70年代にあり、と言っていいかも知れません。我々が一般にいう音楽は、クラシック、ポップスを問わず、多数の人々・企業の総合的な思惑の上に咲いた花である。そういう意味で、「花」の代表例である「アイドル」が、「スター誕生!」のあの時代に一気に開花した(させた?)のは、当然のことだったのかも??
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『書き下ろし歌謡曲』
<7>クッククックー、天使のような淳子ちゃん
「スター誕生!」は、一次審査、二次審査と、歌手志望の人たちが段階的にフルイにかけられ、最後の決戦大会では、会場に集まった芸能オフィスやレコード会社のスタッフが「この子をスカウトしたい!」という意思表示のプラカードを挙げるという、緊迫したドラマが呼び物でした。
「スター誕生!」からは、
森昌子・桜田淳子・
山口百恵の「花の中三トリオ」だけではなく、岩崎宏美、片平なぎさ、ピンク・レディー、小泉今日子、中森明菜といった人たちが続々とデビューしていくのでした。
では、この中で、スカウト希望の指名社数が最も多かったのは誰でしょう。
桜田淳子なんですね。なんと25社も! 当時の彼女は「まるで天使のようだ」とさえ言われた清純派アイドルでした…今となっては信じられない!…という元アイドルも多いけどね。彼女の代表曲の一つ「わたしの青い鳥」(73年)を。もちろん、作詞は阿久悠でした。
<8>売れっ子作詞家に、馴れっこになってしまって…
阿久悠は言います。人気番組「スター誕生!」の凄いところは、同じタイプのシンガーを作らなかったことだ、と。これは、自信あふれる言葉です。
つまり、
森昌子ならば、たとえ演歌系だとしても、男女間のどろどろした内容の歌ではなく、少女でも歌えるような叙情的な歌詞を提供する。天使のように清純なイメージの桜田淳子ならば、それに相応しい歌を。実力派の岩崎宏美や伊藤咲子には、技量が存分に伝わるものを。
…こういう、プロの作家ならではの、選択眼・企画力の力・総合プロデュースの能力がフルに発揮されたのが「スター誕生!」だったのです。
でも面白いことに(?)、ヒットに次ぐヒットで破竹の勢いと見えていた阿久悠ですが、この時(70年代の半ば)は、実は何を書いてもさほど興奮しなくなって、歌がヒットしてもあまり嬉しくないという精神状態にあったのだそうです。
そんな彼をリフレッシュさせてくれた1曲が、岩崎宏美に書いた「ロマンス」(75年)でした。
「これで初めてアイドルを書いてる気がした」とは彼の弁ですが、あれだけアイドルのヒットを持っていても、心の中は違っていた。人間の心というのは不思議なものです。
<9>ここでは何でもできるんだっていう解放区…ピンク・レディー
「スター誕生!」は、綺麗な少女の後ろ側で、たくさんの大人たちがヒットを求め、あれやこれやと考え抜いた企画番組でした。
阿久悠にとっても、「スター・シンガーを作り出す」こと、その総合的なプロデュースのノウハウは、この番組と関わることで培われていったようです。
そして、この最大の成功例が、ご存じピンク・レディーでした。70年代後半の数年間、彼女たちは「国民的な現象」と言っていいほどの人気でした。
そしてピンク・レディーは、作詞=阿久悠、作曲=都倉俊一という詞曲のコンビだけでなく、振り付けの土居甫(どい・はじめ)ほか、プロが集まって共同で作り上げた「一種の総合芸術」(都倉)でもありました。二人のアイドル、若い歌い手、というよりも、彼女たちは巨大なプロジェクトでした。
阿久悠は、全盛期のピンク・レディー・プロジェクトを振り返って、次のように言っています。
「歌につきもののいろいろな制約も気にしなくていい。空飛ぶ円盤だっていい、野球場をもってきてもいい、モンスターが走り回ってもいい、ここでは何でもできるんだっていう解放区。このときはもう映画のプロデューサーの感覚です。『今度は宇宙物でいこう』とか、『次は怪獣を出そう』とか」(『書き下ろし歌謡曲』)
これは、「ペッパー警部」(76年)、「S・O・S」(同年)ほか、アイドルを超えたアイドルとして天空を駆けた当時のピンク・レディー現象の、そのど真ん中にいた人ならではの、感想でしょう。
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<10> これからの歌って、日本語って、いったいどうなるのだろう
大ヒットメイカー、阿久悠の世界。
これまで実にたくさんのヒット曲を書いてきた阿久悠ですが、近ごろは、時代が変ってしまって「言葉が失われてゆく危機感」があると言います。
あるいは「言葉は記憶できるけれど、音はそのまま流れていってしまう。サウンドあるいはダンスミュージックという形で流行していく歌は、消えたら二度と思い出すことがないものです。もしかしたら歌の空洞の時代ができてしまうかもしれない」(『書き下ろし歌謡曲』)
…どうも日本の歌、日本の言葉が、おかしくなっているんじゃないか?
稀代の作詞家・阿久悠は、歌と言葉を通じて日本の今を見つめているようです。
もはや今の日本に、各世代みんながしみじみと味わうような歌は、生まれ得ないのでしょうか。
それならなおのこと阿久悠さんには、これからも頑張ってもらわないといけません。
*この原稿は、毎日放送「はやみみラジオ 水野晶子です」(月〜金 午前6:00〜7:45)の「音楽いろいろ、ちょいかじり!」に書き下ろしたものを再構成しました。2006-07-10〜14放送。