文・藤田正
フォーク世代のヒーローの一人、吉田拓郎。
2006年は、70年代
フォーク・ブームの記念碑的なコンサートだった「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」(略して「つま恋」、もともとは1975年8月に開催)を復活させ、たくさんの「団塊の世代」と呼ばれる人たちが結集し、大いに話題になりました。
単なるヒットメイカーではなく、「拓郎」はある世代にとって未だにヒーローだ、ということでしょう。
というのも「拓郎」は、旧来の歌謡界のあり方をぶち壊したシンガーの一人だったからです。テレビには出ないと公言し実行したこともその一つ。また、拓郎だけには限りませんが彼ら
フォーク世代は、レコード会社と密接な関係にあった作詞家・作曲家に歌を依頼することもなく、自分で作り自分で歌うという「シンガーソング・ライター」の草分けでもありました。
また吉田拓郎は、小室等らと「自分たちのレコード会社」(フォーライフ・レコード)まで作って、歌謡界の常識を覆してしまったのです。
「壊し屋の拓郎」…喧嘩っ早い、というウワサも、このイメージに拍車をかけます。
古い常識に逆らい、自分の思うがままに行動し歌をうたう…同世代の学生たちにとって、これは憧れでした。
そして、そんな「拓郎」は、同時に「旧」と「新」をつなぐ、世代の橋渡し役をつとめた才能あるソングライターでもあったことも忘れてはなりません。
演歌の新しい流れを作った、森進一の「襟裳岬」ほかのヒットがその一例です。
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『拓郎ヒストリー』(2CD+1DVD)
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『人間なんて』
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『LIVE’73』
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『元気です。』
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『よしだのうた/森進一、キャンディーズほか』
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吉田拓郎は、1946(昭和21)年、鹿児島県大口市(おおくちし)生まれ。広島市に育ったシンガーです。
彼は一般には「
フォーク・シンガー」と呼ばれていますが、アマチュア時代はカントリーからジャズまでいろんな音楽を試した人物でした。ベトナム戦争さなかの1960年代後半には岩国基地で米兵相手に、当時流行していたローリング・ストーン(ロック)やサム&でイブ(ソウル・ミュージック)を演奏、プロとしての度胸をつけていったそうです。
日本の民謡に興味を持った大学生時代は、千葉県に民謡がたくさんあるという情報を誰かから聞きつけ、単身出向き、半年間もお墓の掃除をしながらお寺さんに居候していたそうです。でも、体調を悪くしただけで、なんの成果も上げられませんでした。
そんな、一風変わった人が作ったのが「人間なんて」でした。
広島に「和製ボブ・ディラン」がいる!、と深夜放送や雑誌(『平凡パンチ』など)を通じて有名になり始めたころの歌です。
〜人間なんて、ラララ、ラララ、ラーラ〜
と繰り返される歌。ギターをかき鳴らし、殴りつけるように歌う「人間なんて」です。
若者の、誰にぶつけていいのかわからないような鬱憤、不満、絶望を、「ラララ」という言葉にならない言葉で「がなりたてる」。
このようなスタイルは、これまでの日本のポップスにはなく、広島からやってきた吉田拓郎というシンガーは、深夜放送などを聴いている若者たちの間で一気に注目の的となりました。
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吉田拓郎は、1972年に当時まだ新興のレコード会社だった「CBSソニー」(現ソニー・ミュージック・エンタテインメント)に移籍します。
すでにその頃までには「拓郎」の名前は全国の若者の間に轟いていました。
当時の彼を象徴する一言が「テレビには出ない!」というもので、これは旧来の権威を嫌い、新しい音楽(
フォークやロック)を支持する人たちに大変な共感を得ました。
吉田拓郎、そして仲間の南こうせつ(かぐや姫)たちが活躍したメディアはラジオの深夜放送でした。
あの時代の新しい音楽は、ほぼすべて深夜放送から流れ、ヒットしていきました。
「今日までそして明日から」や「結婚しようよ」も、そんな中から生ま出たヒット曲です。
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シンガー・ソングライターという言葉が日本で定着したのも、
フォーク・ブームだった70年代前半でした。
つまり、自分のことを歌う、という行為はまだ珍しかった時代でした。
「僕の髪が肩までのびて、君と同じになったら、約束どおり町の教会で、結婚しようよ」
「結婚しようよ」は、そんな時代の、大いに日本の常識を揺さぶったヒットでした。男のくせに、ふやけた言葉で結婚を申し込むなんて、どうかしている。それも、ぼくの髪が君と同じに…だって!
こういう批判は、拓郎を熱烈に支持していた同世代の若者(男たち)からも発せられたものでした。
歌謡曲に身を売った拓郎、とも彼は言われ始めます。
……でも、若い男の長髪も、女の子と手をつないで教会で結婚式をあげるのも、実は普通の日本の光景になりつつあったのが当時でした。拓郎は、それを我が身のこととして歌い、そして、この歌がヒットしている最中に本当に結婚までしてしまうのでした。
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「旅の宿」「夏休み」「おきざりにした悲しみは」など、1970年代(前半)の吉田拓郎には名曲、大ヒットがたくさんあります。
そして吉田拓郎は1972、73年頃には、実質的に日本の若者たちの生き方を左右する文化人の一人になっていました。
大人社会への反発、古臭い芸能界への批判…支持者たちは、拓郎さんの歌の中に、あるいは彼の一挙手一投足に、そんな「反体制」の匂いを嗅ぎ取っていた、と言えるでしょう。
しかし、そんな彼が若き演歌スター、森進一に歌を書いたのが「襟裳岬」(73年末発売)でした。
批判も含めて「襟裳岬」は大きな話題になりました(作詞=岡本おさみ)。そしてこれが74年にレコード大賞を受賞します。
対立していると思われていた
フォーク・シンガーやロック・ミュージシャンと、芸能界とのカキネがなくなり始める、これは大きなきっかけだったと言われています。
74年に拓郎さんは、かまやつひろしと一緒に「シンシア」(アイドル・南沙織へのオマージュ曲)を、実に楽しそうに歌いました。二人のこんなアッケラカンとした姿勢も、
フォークが、吉田拓郎が、ある変化を始めていたその兆しだったのかもしれません。
時代は「
フォーク」よりも、「ニュー・ミュージック」という言葉が頻繁に耳に入るようになっていきます。
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音楽を作る者がレコード会社の代表になる。
インディーズ花盛りの今では特別なことではありません。
しかし70年代は、まだまだ突拍子もないことでした。
1975年、吉田拓郎が仲間の小室等に「自分たちで会社をやりたい」と提案したところから「フォーライフ・レコード」がスタートしました。
中核になったのは、拓郎、小室、井上陽水、泉谷しげる…というめんめん。今から考えても凄いこと、当時も大いにメディアを賑わわせました。
初代の社長が(抽選で決まった)小室等。
そして二代目が、吉田拓郎でした(在任は1977年から6年間)。
この時期のフォーライフは大きな赤字をかかえるなど、必ずしも順風満帆とは言えませんでしたが、ジャパニーズ・ポップの大スターであるその人(吉田拓郎)が、引退もせずに、同時にレコード会社の社長として活動していたというのは、日本では前例のない出来事だろうと思います。
拓郎さんが社長だった時期の、フォーライフのヒットには、原田真二「てぃーんず ぶるーす」(拓郎さんのプロデュース)、ザ・ぼんち「恋のベンチシート」、イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」、水谷豊「カリフォルニア・コネクション」、シュガー「ウェディング・ベル」……などがあります。
フォークがアンダーグラウンドだった時代から10年ほどの歳月で、これだけ日本の音楽が変わってしまう。その典型が拓郎さんであり、その原動力の一つも吉田拓郎だった、と言えるでしょう。
*この原稿は、毎日放送「はやみみラジオ 水野晶子です」(月〜金 午前6:00〜7:45)の「音楽いろいろ、ちょいかじり!」に書き下ろしたものを再構成しました。