文・藤田正
守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし (赤い鳥「
竹田の子守唄」)
子守唄の歌詞を眺めていると、これは
ラップと同じだと思うことがある。
ラップとは、今や日本の若者にもほぼ定着した「しゃべくり音楽」(rap music)のことである。
私は一九七〇年代の中ごろ、
ラップがまだその名前すらなかった時に生まれ故郷であるサウス・ブロンクス(ニューヨーク市)にいたことがあって、以来、長くこの「語りをリズムに乗せる音楽」と付き合ってきた。
ラップは、貧しく世間から見捨てられたような地区の少年少女が編み出した、ポピュラー音楽の素晴らしき結晶である。私はそんな
ラップと日本の子守唄とが、時にずいぶんと似通った匂いを漂わせる瞬間を知っている。
新建 新建と いばるな新建
広い新建に 寺がない こいこい
本町 本町と いばるな本町
広い本町に 医者がない こいこい
右は、京都の被差別部落に生まれた「
竹田の子守唄」の原型となった一曲「竹田こいこい節」から引いた歌詞である。
新しい地区(新建)には寺がない、何や? それ言うなら反対に、あんたらの古い本町地区に医者がおらんやないか…と、赤ん坊を背負った少女たちが即興で掛け合ったのが、このように歌として残ったのだろう。「こいこい」という繰り返しはむろん、歌詞全体がリズミックに跳ねるように韻を踏んでいる。
即興で、言葉のリズムに重きを置き、身の回りの実生活をリアルに歌いこむ。それも時に、相手をやり込めるような言い方で。これをアメリカの黒人たちは、ダズン、あるいはダーティ・ダズンと呼んできた。この伝統的な言葉遊びを最新のリズムと結びつけたのが
ラップだった。そしてダズンも
ラップも、その原点とは、差別的な環境に置かれた(特に若い)黒人たちにとっては、日々の鬱屈を晴らすせめてもの行為、叫びであった。
かつての日本の子守唄にも、ダズンや
ラップの要素は濃い。厳密に言うと、守り子たちによる「守り子唄」のことだが、重複は多いとはいえこのような歌は、記録されているだけでも全国に膨大な数にのぼるのである。そしてそれらの中で、際立って美しく、かつ少女たちの生への渇望を見事に歌い表わす一曲が「
竹田の子守唄」だと思う。
「
竹田の子守唄」の素晴らしさはもう一つある。「子守奉公」という言葉がとっくの昔に死語となった今、日本的な子守唄の大半は、テレビやイベントでお上品に歌うなり、地域の遺産として残るなりしかないような形骸化の道を辿っているようだが、私の知る限り沖縄や竹田は異なるのである。
「
竹田の子守唄」は、今に生きているである。
被差別部落に生まれたこの歌は、プロの手を加えられたのち、六〇年代のフォーク・ブームに沸く京都の若者の中へ広まっていった。フォーク・グループ「赤い鳥」が大手レコード会社からこの題名でシングル盤を発売するのが一九七一年のこと。レコードは記録的な成績を上げる。しかし歌が世に知られたことが、出自に光を当てることにもなり、いつしか赤い鳥の「
竹田の子守唄」は放送メディアから消えた。いわゆる放送禁止歌の代表的一曲が「竹田」だった。
このあたりについては私の『
竹田の子守唄 名曲に隠された真実』を読んでいただきたいが、部落というだけで扉を閉じてしまうメディアの差別、それは肌の色だけで(今も)苦渋を飲まされ続ける黒人への差別と根っ子は同じだろうと思うのだ。もちろん
ラップの詞の激しさは、この人種差別に起因する。
「
竹田の子守唄」が今に生きていると私が言ったのは、歴史的な部落差別を跳ね除けるために、地元の女性たち(部落解放同盟改進支部女性部)が中心となり地域の誇りとして、百年も前に遡ることのできる貴重な原曲(二曲)ほかを発掘し整理し、さらに自分たちの解釈で歌い直しているからである。
部落差別、女性差別、子どもと教育の問題…「
竹田の子守唄」という扉を開けると、日本のメインストリームが今までいかに弱者を踏みにじってきたかということすら見えてくる。
さて、竹田の女性たちが胸を張って歌い出してから、何年経っただろうか。以後、関西を中心にテレビやラジオの特番が組まれ、CDへも、気が付けばずいぶんたくさんのシンガーが吹き込んでくれるようになった。歌の世界からまず最初に、部落差別が消えてくれることを切に願う。
(音楽評論家)
*初出:『月刊言語』リレー連載「子守唄の風土記」(2006年4月提出)