先ほども説明したように、レコ倫はレコード協会に加盟する各社(いわゆるメジャー)による自主管理のための組織です。
ゆえに、レコード協会に属さない会社や組織は、レコ倫とは関係がありません。レコ倫が、CDなど音楽ソフトを発売するすべての会社、アーティストに対して直接的な影響力を持っているというのは間違いです。
反対に、レコード会社のスタッフが、レコ倫の「威力」を利用して歌詞の変更をうながすことがあるようです。ちなみに私の知るところでは、「レコ倫にこう変えろ」と言われたからと、歌詞の制限や変更をアーティスト側に求めた例をいくつか知っています。その中には、レコ倫と関係がないはずのインディーズでの例もありました。
レコ倫は、協会に加盟する各社が発売する歌詞に関して検討するための機関なのに。つまりここで問題になるのは、レコード会社によって、またそのスタッフそれぞれに、この言葉をどう認識するかという1点においても温度差があり、それゆえ自分たちの判断を、ある時はレコ倫のせいにして、ミュージシャンや現場責任者に押し付けることがあるということです。
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竹田の子守唄」が、「誰」によって表舞台からの退却を余儀なくされたのかが見えない、というのは、こういう背景もあるのです。レコード会社のスタッフが「被差別部落の歌であるのなら、とにかくヤメろ(あるいは、歌詞を変えろ)」と判断し、それをレコ倫からの「お達し」にしてしまう…ことがある。このような構図。
丸山さんは一般論として、「レコ倫がスケープゴートにされてもかまわない。CDが発売されてから、人を傷つけ、様々な問題が起きるよりもずっといい」と言います。自分が気づかぬうちに他者を差別をしていた、というよりも、問題ありと先に指摘することで「特に若いミュージシャンたちが、人権の大切さを学んでくればいい」と。
音楽も言葉も、激しく変化する今、レコ倫はこれまで以上に重要度を増す機関なのかもしれません。
(取材:2003年3月25日 協力:新屋泰造氏=社団法人日本レコード協会)