60年代ソウルとオーティス・レディング
 かつて「ソウルの王」と呼ばれた男がいた。
 オーティス・レディングOtis Redding、その人である。
 60年代のソウル・ミュージックにあって燦然と輝き、あっという間に消えた男、オーティス。彼は、1967年12月10日、ウィスコンシン州マディソンで起こった飛行機事故で、26年の短い生涯を終える。
 この記事は、オーティスという不世出のボーカリストを追いかけながら、当時の黒人音楽の魅力を紹介してみよう。
 (記事の使用写真は、すべて『リスペクト〜ヴェリー・ベスト・オブ・オーティス・レディング』から)。

■「魂の音楽」の登場
 「SOUL」。「魂」という意味である。
 面白いことに、黒人系アメリカン・ポップの中で、このような「マジメな言葉」が黒人ジャンル名になるというのは珍しい。 
 性行為と密接な関係にある「ジャズ」や「ロック」「ブギウギ」、鼻がひん曲がるような臭いの「ファンク」、しおれた心模様の「ブルース」、無意味なゴタクを述べるだけの「ラップ」。厳然たる宗教歌である「ゴスペル」を除き、黒人音楽はとても上品とは言えない言葉と共にあった。
 60年代。それは、アメリカにおけるマイノリティの権利獲得運動(公民権運動)が激しさを増した時代でもあるが、中でも黒人の意識の高まりがある頂点に達した時、「SOUL」という、もともとは教会をイメージさせる言葉が、業界用語であった「リズム&ブルース」と入れ替わるように使われ始めたのである。
 「我々は、魂を持った、人間である」という主張。その人間が魂の歌を歌う。それが「ソウル・ミュージック」だった。
 サム・クックレイ・チャールズジャッキー・ウィルソンリトル・リチャードほか、ソウルの時代の幕開けを飾った名シンガーのあとに続き登場したのが、のちに「ビッグ・オー」の愛称でも知られることとなるオーティス・レディングだった。

■偶然からつかんだビッグ・チャンス
 オーティス・レディングは、1941年9月9日、南部のジョージア州ドーソンに生まれている。ジョージア州は、レイ・チャールズリトル・リチャードが生まれ、ジェイムズ・ブラウンが育った場所である。
 オーティスは、ロックンローラーとして凄まじいステージをこなしたリトル・リチャードや、サム・クックら先輩たちの歌を聞き、影響されながら腕を磨いた人物だった。
 彼に大きな転機が訪れるのは1962年、メンフィスでのことである。それまで小さなレコード会社から若干のレコードを発売したこともあったオーティスだが、この時、新たなレコーディングのチャンスをつかむ。同郷のミュージシャン、ジョニー・ジェンキンズのレコーディングに運転手として同行したスタックス・レコードで、彼は空き時間に歌わせ欲しいと申し出たのである。
 オーティスのこの行動が、スタジオ中を驚かせるどころか、80万枚も売れるヒットを生み出し、ひいては、まだまだ小さかったスタックスを世界にとどろく名門レーベルへと急上昇させる一因となったのである。
 その歌とは、「ジーズ・アームズ・オブ・マイン」。彼の自作である。
 この私の腕が、君を求めている。この腕が寂しい。この腕が燃えている。
 二十歳そこいらの青年が歌った作品とは思えない成熟の向こうから聞こえてくるのは、「誠実」というメッセージだった。
 ソウル・ミュージックは娯楽音楽には違いないが、娯楽の中にも、一つや二つ、マジに、正面を向いて語りかける姿勢があってもいいはずだ…オーティスの歌い口には、まさにそう感じさせる情熱があった。そしてそれこそが、ソウル時代のブラック・ミュージックだったのである。
■人間の心情を語った巨木
 ジョニー・ジェンキンズのバンドで鳴くかず飛ばずの存在だったオーティスの人生は、「ジーズ・オブ・マイン」1曲で激変することになった。
 オーティス・レディングは、60年代の黒人音楽の中心部へと進み出た。
 当時のブラック・ミュージックは、デトロイトに大ヒット・レーベル、モータウンがあり、シカゴにはジ・インプレッションズカーティス・メイフィイールド)らがいて、60年代の後半からはアリサ・フランクリンがニューヨークのアトランティック・レコードと契約し、名実共に「ソウルの女王」へ上り詰める、そんな時代だった。
 ウィルソン・ピケット、ジェイムズ・ブラウン、ソロモン・バークジョー・テックスサム&デイブ……数多くのスタイリスト、ヒット・メイカーが活躍する中で、オーティスが在籍したスタックス・レコードは、アラバマのフェイム・スタジオとならび、南部の味わいとダイナミクスを提供するソウルの「台風の目」となっていく。ちなみにアトランティック・レコードがピケットやアリサたちを、わざわざ南部へ連れて行き、歴史的な録音を行なったことは、あまりにも有名である。
 オーティス・レディングは、この南部メンフィスのスタックスで、「台風」を起こす中心人物となったのである。
 雄々しくドラマティックなラブ・バラード「この強き愛」(64年)、苦渋に満ちた愛の告白「愛しすぎて」(65年)ほか、しみじみと胸に染み入るこれらのスロウ・ナンバーは、現在の音楽から見れば、ほとんど小細工がないに等しい。
 歌がいい。歌に気持ちが充分に乗っている。バンドはそれを十全に盛り上げる。たったそれだけのことだ。
 しかし、初期のビートルズら当時のロックにも当てはまることだが、だからこそシンガーの隠しようもない熱意が伝わるのである。
 オーティス・レディングは、ほとんどのアメリカ黒人にとっての古里である南部で、誠実に、人間の心情を語った巨木として大いに敬意を払われたシンガーとなった。

■リアル・メンフィス・リズム
 オーティス・レディングの歌のもう一つの魅力は、バックマンとのコンビネイションの良さである。 
 モータウンのセッション・バンド「ファンク・ブラザーズ」(通称)や、ジェイムズ・ブラウンのバックメンなど、当時の黒人シンガーは同じソウル・ミュージックといっても多様なバンドが存在し、それぞれが独自のサウンドを持っていた。
 オーティスのバックを努めたのは、映画『ブルース・ブラザーズ』のシリーズでも有名な、スティーブ・クロッパー(ギター)、ドナルド・ダック・ダン(ベース)ら、スタックスのハウス・ミュージシャンだった。
 彼らバックメンはブッカー・T&ザ・MGズの名義でヒットも作っているが、シンガーとバンドが一体と化したスリムで、しかしハガネのような強靭なビートは最高である。
 特にそれがわかるのがアップ・テンポの曲で、例えばメンフィスの歌姫、カーラ・トーマスとの熱愛デュエット「ラヴィ・ダヴィ」などは、後ろのホーンも含め、怒涛の攻めとしか言いようがない。
 オーティスの重量級ボーカルをさらに後押しする、アル・ジャクソン(ドラム)のハード・キック&パンチ。二人の周りをカミソリのようなギター・カッティングやホーンが切り込みをかけてくる。
 こんな素晴らしい曲ですらファンの間だではさほど話題にならないのだから、オーティス&ヒズ・リズムとは、どれほどのクオリティを誇っていたかが知れるのである。
 そしてもう一つ注目すべきなのが、カントリー&ウェスタンの味わいである。
 これは「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」ほか、共作者としても優れた作品を書いたスティーブ・クロッパーの音楽性に顕著なのだが、ちょっとしたメロディ・ラインやリフなどに、南部のもう一方の文化、白人の伝統が活かされているのである。
 実はスタックスも、アラバマのフェイム・スタジオも、熾烈な黒人差別が横行した南部において、信じられないような人種間の融和があったスポットとして知られてきた。
 クロッパーもダック・ダンも白人である。そんな二人が黒人街へやってきて、何の差別もなしに、一人のミュージシャンとして意見をぶつけた。
このような「人間」としてのインタープレイの成果が、オーティス・レディングのソウルだったのである。
■トリビュート・トゥ・ア・キング
 オーティス・レディングというシンガーが、「ソウルの王」と言われるのには、もしかしたらそんな背景があるのではないだろうか。
 オーティスが飛行機事故で亡くなった68年、メンフィスのソウル・スター、ウィリアム・ベルは「ア・トリビュート・トゥ・ア・キング」という美しくも悲しい歌をうたった。もちろん、オーティスへの挽歌である。
 そしてこの68年というのは、ソウルの内実が劇的に変わった年でもあった。 マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたからである。
 白人と黒人はやはり一緒に歩むことは出来ないという絶望と怒りが、この事件によって頂点に達し、全米の黒人街は燃え上がらんばかりだったという。当時の政府に請われたジェイムズ・ブラウンが、ラジオから必死に暴動を食い止めようとしたという逸話もあるほどに、スタックスの内部ですら、とても白人と黒人が一緒に仕事ができる雰囲気ではなくなってしまう。
 黒人音楽史として、さらに深く黒さを求めるファンク・ミュージックが台頭してくるのは、ちょうどこの時期である。
 こういう歴史の流れから見つめなおせば、レディングは「ソウル第一期(融和への道程)」の幕を、その突然の死によって引いた張本人だと言えるかもしれないのである。
(イーストウエストAMCY6191〜2)
■異例のソウル・ミュージック
 そして、ここでいつも話題となるのが、オーティスのラスト・ソング「ドック・オブ・ザ・ベイ」なのである。死後、オーティス最大のヒットとなった、日なが、海を見つめる男の歌だ。歌は、目的を失ったのか、一人の人間の寒々とした内面をテーマとしているかのようだ。
 熱唱型からガラリと姿を変えたオーティスの歌に登場する主人公とは誰のことだろうか。オーティス自身のことか。あるいは、アメリカ最大の闇である人種問題の解決に、一筋の光を見出していた人々の挫折だろうか。
 これが実に難解な問いなのである。
 ソウルの王道中の王道を歩んだ人物が、その予期せぬ死の直前に、日なが海を見つめている歌をうたうという、異例の内容を持つソウルである。これが、とても胸に染みる。
 なぜ、このような歌を作ったのか。
 未だに分からない。
 不思議だ、分からないと言いながら、オーティスは我々ファンの心から離れることを知らず、気がつけばその死から三十数年の歳月が流れていたのである。(おわり)

( 2001/03/08 )

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