ジェリー・ゴンサーレスがブルーノート東京にやってきた。
彼と会うのは10年ほど前の、同じフォート・アパッチ・バンドと共に東京でライブを行なって以来のことである。ただ、同じといっても、それは名前がであって、メンバーはずいぶん異なる。
なにより右腕であり実弟でもあるアンディ・ゴンサーレスがいない。彼は、急遽来れなくなったのだ。案じていたことが、現実のものとなった。
ジェリー&アンディと言えば、60年代の終わりから70年代にかけて、
エディ・パルミェーリ楽団ほか、
サルサの最もハードでクリエイティブな部分に必ずといっていいほどにその名前を見ることのできた、最強のリズム・セクションであった。ジェリーがコンガ、アンディがベース。二人揃った、自分たちの
サルサ・バンド、コンフント・リーブレのライブをニューヨークで何度も見たが、彼らが醸し出す見事なスイング感は、伝統的でありながらも「北の街のラテン〜カリブ海音楽」というセンスが滲み出ており、これこそが
サルサなのだと思わせるものだった。
その
ジェリー・ゴンサーレス。彼の音楽性は、
サルサだけではない。もう一つ、
ジャズがある。彼の生まれ故郷であるニューヨーク市のブロンクスや、その南にあるハーレムなどは、いわゆるブラック・ミュージックの心臓部である。ジェリーは、その一般に貧困地区と呼ばれる場所で育ち、地元にしかない独自の音楽性を充分に栄養とした才人だった。
ブルーノート東京でのフォート・アパッチ・バンド(初日:04-08-04)は、4ビート・
ジャズからキューバのルンバ・コロンビアまで、多用なリズムを組み合わせた「ブロンクスのあいつら」らしいリズム構成だった。
こういうアフロ・キューバンから
ジャズにいたるまでのリズムを、ここまで高度にブレンドできるのは今、ジェリー一派を置いて存在しない。
モンゴ・サンタマリアと共にあった名人、スティーブ・ベリオス(ds)らとの…目配せもしない…リズム・チェンジのその瞬間たるや鳥肌ものだった(当夜は初日でもあり、私の判断によれば彼らの実力が存分に発揮されてはいなかったが、それでもなお、なのだ)。
ジェリー・ゴンサーレスとは、二日目(5日)の午後、楽屋で会った。
この10月に発売が予定されている『Rhumba Buhaina: A Tribute To Art Blakey and the Jazz Messengers』がプレイヤーからかかっていた。
ジェリー・ゴンサーレスは、1949年6月5日生まれの、プエルトリコ人である。
楽器としてはトランペットが最初だったそうで、それはジュニア・ハイスクールの音楽授業の一環としてだった。弟のアンディ(1951〜)はクラシックのバイオリンを弾き、ジェリーは少年時代からチャーリー・パーカーやルイ・アームストロングが大好きだったと言う。
ブロンクスのハウジング・プロジェクトにあった家は、音楽にあふれていた。クリスマスともなると、音楽が大好きだった両親を中心として朝までパーティが続いた。
「父も母も歌手で、父は打楽器も抜群だったし、トランペットの手ほどきも教えてくれた。家にはティト・ロドリーゲスやマチート、セリア・クルースなど(往年の大シンガー〜オーケストラ)があって、ぼくもダンスはメチャクチャ好きだった。いい音楽がかかってしまうと、ヤバいっ!んだよね」
----黒いサングラスに黒系の服装、舞台ではほんの少ししか喋らない。クールなイメージからすると、ダンスが嫌いなのかとも…。
「まったく違うんだよ、ぼくはそんな男じゃない(笑い)」
「知ってるように、ぼくはブロンクスに育ったわけだけど、あの地区はイタリア人、ユダヤ人、中国人、黒人ほか、様々な人たちが集まっている。あそこだけで一つの国なんだ。ぼくはあそこで生まれて良かったと思う。色んな文化を分け隔てなく吸収できたんだから」
----あなたが、まさにニューヨークらしい多面体の音楽が出来るのも…
「あそこに生まれたからだよ。(ラテンの)コンガを叩いて(
ジャズの)トランペットを吹くというのは、変わってると言われるけど、ぼくにはとても自然なことだ」
----プロとして演奏したのは?
「ルウェリン・マシューズ(Llew Mattews)、彼は今、ナンシー・ウィルソンの音楽監督をやっているけど、そのルウェリンに呼ばれて、ニューヨークのワールド・フェア(1964〜1965)でやった時が初めて。アンディも一緒にね。ルウェリンは良き指導者だった」
----コンガ奏者としては誰がヒーローだったんですか?
「
モンゴ・サンタマリア! 徹底して彼のフレーズ、パターンを覚えたね。コンガをやり出して、もう叩きっぱなし。両手の指の皮が破れてしまって、はじめの3年ほどはコンガは血だらけだった(笑い)。そのあと、モンゴの息子と知り合ったんだけど、ぼくがあまりにも彼のオヤジを完コピしているんで、腰を抜かしそうになってたよ(笑い)」
----そうして弟と一緒に、10代からスゴ腕として知られて行った。
----
サルサとしては、
エディ・パルミェーリ楽団への参加があります。
「ニッキー・マレーロ(ティンバーレス)が、『あのパルミェーリとセッションができるぞ』というんで出かけていったんだが、ぼくのプレイを聞いてエディは怒ってね。絶対にお前は私の楽団で演奏させないと。彼はぼくの自分流が気に入らなかった。ぼくはぼくで、自分らしくやるから、と物別れ。でもしばらくして、彼はぼくをコンガ奏者として雇い入れることになるんだよね(笑い)」
----
サルサといっても、あなたたちは新世代だから、先輩のパルミェーリも驚いたんですよ。
「そうだと思う。70年代になると、ぼくなんかディジ・ガレスピーとトニー・ウィリアムスとパルミェーリの三つを掛け持ちしていた。一日に三つ、ね」
----!!
「そして時間があれば、仲間たちと集まってセッションだから。夕方にまでに三々五々、凄い連中が集まってブリブリのフリー・
ジャズをやる。20人、30人でね。その後、
サルサのクラブへ。力と力のぶつかり合いのフリー・
ジャズと、きちんと型の決まった世界(
サルサ)とを、ぼくやその仲間たちは、普通のこととしてやっていた。それがフォート・アパッチ・バンドへつながって行くんだ」
----「フォート・パッチの一つ手前にあたる、ジェリー、あなたの初ソロ『Ya Yo Me Cure』…素晴らしいアフロ・カリビーン・
ジャズですが、そんな経歴を持つ人ならではの作品でした。
「言っておくけどあれはリハーサルもしないでやった作品なんだけどね。みんな驚くようだけど、ぼくらにとっては、いつも、ずっと演奏をしてきたんだから、今日はコレでやろうと言えば、みんなができる。それだけのことだよ」
ニューヨーク・
サルサの歴史的な傑作、『Concepts in Unity』(1976年)のアイデアも、ジェリーのアイデアから出たのだそうだ。世代を超えたニューヨークのラテン系ハードコアのプレイヤーが、「GRUPO FOLKLORICO Y EXPERIMENTAL NUEVA YORQUINO/グルーポ・フォルクロリコ・イ・エクスペリメンタル・ヌエバ・ヨルキーノ」の名前の下に結集したこのアルバムも、自分たちのルーツを徹底的に知り、同時に常に新風を求める
ジェリー・ゴンサーレスのような存在なくして生まれ得なかったのだ。
「仲間たちが、
アルセニオ・ロドリゲス、アルカーニョと彼のマラビー
ジャズ…といった歴史的な素晴らしい人たちをぼくらに紹介してくれる。それを、徹底的に学ぶんだ。徹底的に。徹底することで、彼ら大先達を超えてゆくことができる。ぼくがやっていることはそういうことだと思うよ。
カル・ジェイダーも大好きだったね」
「かつてユニバーシティ・オブ・ストリート、という学校があってね。みんなでやっていた学び舎だよ。あのケニー・ドーハムが、突然ぼくを誘って。弟も教えて。あのルウェリン・マシューズもやっていたストリート文化のための学校だ。ニューヨークらしいと思わないか? そういう場所から、新しい音楽が生まれるんだ」
「今回、弟は病気で来れなかったが、代わりに来日したルーケス・カーティスは、弟がずっと教え込んでいた若者だ。彼にとっては今回が初めてのビッグ・ステージなんだぜ。彼の来日は突然決まったんだけど、彼はぼくが何を言わなくても今回の曲目、アレンジをすべて理解しているんだよね。それが、ぼくらさ」
----今、マドリードに住んでるんですよね。
「そう。5年になるかな。快適だよ。ニューヨークは、警察の暴力がハンパじゃなくなっていて、たとえば車を運転していても何をされるか戦々恐々という状態だからね。いつ刑務所にぶち込まれるか、誰にもわからない。それに法律も。どこへ行っても禁煙で、ドレッシング・ルームでタバコなんか吸おうものなら、2000ドルの罰金でパクられる」
----以前もアメリカの警察は(特に白人以外に)ひどかったけど…
「さらに悪くなっている。あと、スペインに来て、ぼくが有名人だということを初めて知ったんだよね。突然のようにサインを求められるし、ぼくがどんなことをやってきたのか、たくさんの人が知っているし。ニューヨークにいた時なんか、ぼくはタダのヒト、でしかなかった。だからこの場所から、音楽をやろうと思うんだ」
----闘病中のアンディにくれぐれも、よろしく。
「ありがとう」
(藤田正)
amazon.co.jp-『Ya Yo Me Cure』
amazon.co.jp-『Concepts in Unity』
amazon.co.jp-DVD『CALLE54 』(ゴンサーレス兄弟など歴史的なラテン・プレイヤーを追ったDVD)