2009年10月、チャーリー・ヘイデンは『Bass Player Magazine』の「Lifetime Achievement Awards」を受賞した。これまでの長いキャリアが、権威ある雑誌によって総合的に評価された。
2008年に『Rambling Boy』が出て、チャーリー・ヘイデンのキャリアが
カントリー&ウェスタンから始まったことに改めて感慨をおぼえた方もいるだろう。72歳になった今も、精力的に、しかもジャズに留まらず様々なアーティストと活動を続けているベースマンのルーツが、アメリカン・ホワイトの、保守の代名詞ともいうべき音楽である。そして、そのベースマンの、最初の画期がフリー・ジャズというのだから、この人のキャリアはなかなかに面白い。
オーネット・コールマンの革新的グループで名をなし、「ワールド・ミュージック」という音楽用語もなかった60年代には、リベレイション・ミュージック・オーケストラを率いて世界の音楽とその担い手(大衆)とのかかわりを訴えた人物、それがチャーリ・ヘイデンだった。かつてのフリー・ジャズ・ムーブメントの中心人物の一人であり、チェ・ゲバラに対して熱烈なオマージュを捧げ、大衆運動の渦中においては逮捕歴もある、となると、「理論好きのアタマでっかち」という捉え方をする人もいるかも知れないが、ヘイデンの音楽、あるいはベース・プレイには、そんな堅苦しさがない。トーンは叙情的であり、かつ「この人はロマンチストなんだろな〜」と思わせる情熱がほとばしる。ここがヘイデンの魅力であり、音楽的知性であり、だからこそ矢野顕子ら異なるジャンルの人たちにからひっきりなしに共演を請われるのだろう。
延髄ポリオをわずらって
チャールズ・エドワード・ヘイデンは1937年8月6日、アイオワ州シェナンドーに生まれている。両親はアンクル・カールとメアリー・ジェーンという芸名を持つ
カントリー&ウェスタンのシンガーだった。両親は、チャーリーにとっての兄、姉と共にザ・ヘイデン・ファミリーと名乗って中西部、南部一帯を広範囲にツアーしていた人気者だった。
チャーリーもその血を受けてか、幼児の頃から音楽にビビッドに反応し、親もまた「この子はウケル!」とばかりに、ファミリーがラジオ番組にチャーリーを出演させた。芸人一家ならではのド根性である。
だがチャーリーは、15歳の時、延髄ポリオ(脊髄性小児麻痺)にかかってしまう。これにより彼は歌をうたうことに支障をきたし、その後は演奏に専念するようになる。彼の担当楽器は、もちろんウッド・ベースだった。
カントリー・ミュージシャンだったチャーリーの進路を大きく変えたきっかけの一つが、ノーマン・グランツがプロデュースした「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)」である。気鋭のジャズマンを揃えたこのライブ・ツアーを、彼はオマハ(ネブラスカ州)で目撃したという。中でも、白人の
カントリー少年にとって衝撃だったのが
チャーリー・パーカーのアルト・サックスで、その演奏はチャーリー・ヘイデンをモダン・ジャズ世界へ向かわせる先導役を果たした…そうチャーリー・ヘイデンは折に触れて語っている。
56年、音楽番組の演奏者としてお金を貯めた彼は、一路LAへ向かった。それは本格的に大学(ウェストレイク・カレッジ)で音楽を学ぶことと、大好きなハンプトン・ホーズらプロのジャズマンと共演することだった。果たして、1年も経たないうちにホーズはもちろんアート・ペッパーらとも交わることになり、そういった交流の中からオーネット・コールマンと出会うことになったのである。
フリー・ジャズという大改革
コールマンのグループにチャーリー・ヘイデンが加わり、ジャズ界に激震を与えたのが、かの『The Shape Of Jazz To Come(ジャズ来るべきもの)』(59年)である。オーネット(as)、ドン・チェリー(cor)、ビリー・ヒギンス(ds)、ヘイデン(b)のクァルテットは、続く『Change Of The Century』でも大変な注目と批判を浴び、セシル・テイラー(p)らと共に「フリー」「アヴァンギャルド」の指針となっていく。
たとえば、60年12月に録音されたその名も『Free Jazz』においては、オーネットは、二つのグループ一度に演奏させるというキテレツな企画を遂行したが、ヘイデンはその中にあってスコット・ラファロ(b/この約半年後に夭逝)と共に、どっしりとした演奏を聞かせていた。
オーネット・コールマンとの付き合いは、この時代から(断続的ではあるが)ずっと続くことになる。時代は下り、オーネットを慕う一人であるパット・メセニー(g)との論議を呼んだコラボレイション『Song X』(85年)にもチャーリー・ヘイデンが参加しているのは、その一例である。
ジャズから、さらに世界へ
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『Beyond The Missouri Sky』 |
チャーリー・ヘイデンが、オーネットとの活動以上にその名前が知られるようになったのは、キース・ジャレット(p)との活動だった。キースは70年代に入って、ジャズ界を超える国際的なスターとなったが、美しく彼をサポートしたのがチャーリーだった(キースのアルバム・デビューである67年から約10年間)。ヨーロッパ的な静謐な空間からフリー・ジャズの激烈なエナジーに至るまで、4本の弦できっちりと各々の世界を創出できるベーシストは彼を置いていない(2010年5月末にジャレットとの共演作『Jasmine』がリリースされる)。
そして69年、カーラ・ブレイ(p、arr)らと結成したのがリベレーション・ミュージック・オーケストラだった。
21世紀における「脱アメリカ音楽」という世界の潮流を考えた場合、このチーム、あるいはアルバム『Liberation Music Orchestra』は、先駆的な存在と言っていいだろう。大衆歌謡としての
カントリー、アメリカ音楽最高のエッセンスを集約するジャズ…という貴重な体験を経て、彼がリーダーとして打ち出したのは、音楽は世界の大衆と共にあらねばならない、という姿勢だった。
チャーリー・ヘイデンが、
ラテン・アメリカの俗謡ほか、世界の貧しい人たちの音楽に常にシンパシーを感じ活動しているのは、素晴らしいことだと思う。その意味において、オーネットやキースらとの76年のデュオ集『Closeness』も独創的だし、82年の『The Ballad Of The Fallen(戦死者たちのバラッド)』、あるいは2000年のキューバ系の辣腕(ゴンサロ・ルバルカバ<p>やイグナシオ・ベローア<perc>)とのセッション『Nocturne』など、注目すべき作品は多い。
そして87年、アーニー・ワッツ(s)、アラン・ブロードベント(p)らと、現在の活動の基本となるQuartet Westを結成、このセットでは、大御所らしい燻し銀のゆったりとしたジャズを聞かせてくれる。
97年には、親友のパット・メセニーとの共作アルバム『Beyond The Missouri Sky (ミズーリの空高く)』をリリース。これも話題になったが、二人の高い知性を感じさせる名作である。
……と、この素晴らしい経歴。『Bass Player Magazine』の「Lifetime Achievement Awards」受賞が、2009年だというのは、ちょっと不思議な気がするヘイデン氏であった。
(文・藤田正)
*初出:『ベース・マガジン』(2010年1月号)
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