「歌は語る 人を語る/ゲバラ・怪人・ハンセン病」
藤田正(Beats21)

▼8千万人が見たミュージカル
 人はみんな違う顔をしている。それぞれが異なる個性を持っている。だから、その異なることを嫌うのではなく、お互いが理解しあうための出発点とする。
 と、言うのはたやすいが、人の日常には他者に対する偏見がどこかに顔を出すものだ。自戒を込めてそう思う。
 かつて、パリのオペラ座に「ファントム」と呼ばれた男がいたという。ファントムとは幻、幽霊のこと。日本では「オペラ座の怪人」という訳名で紹介された小説、ミュージカルのことである。
 小説「オペラ座の怪人」が初めて世に出たのは1910年だった。だがこの作品が現在のように国際的となったのは、イギリスの作曲家、アンドリュー・ロイド・ウェバーによる舞台化がきっかけだった。ウェバー版のミュージカルは1986年に初上演、その後、劇団四季ほか世界各地の舞台で演じられ、これまで8千万人が観たとされている。
 その「オペラ座の怪人」だが、このほどウェバー自身の製作による完全版が映画になった(ギャガ〜東宝/2005年新春公開予定)。映画は、全盛を誇った19世紀の(架空の)オペラ座を今によみがえらせようと、そのセットも衣装も音楽も、まさに豪華絢爛な大舞台である。
 それだけに、オペラ座の地下に暮らす幽霊男の苦悩が、際立つ作品でもあった。
 原作者ガストン・ルルーは、彼を、母親にキスさえしてもらえなかった男だったと設定している。彼は「死神もよけて通るような顔」であり、「世にも希(まれ)な醜さゆえに忌み嫌われ、人間の世界から疎外されてしまった」(長島良三訳、角川文庫)
 ファントムはもう一人の主人公、クリスティーヌ嬢を音楽の魔力でとりこにし、彼女をオペラ座最高のシンガーに育て上げ、自分の妻にしようと画策もする。そのためには殺人もいとわない冷血の天才。彼の顔には、あのおなじみの仮面が張り付いている。
 
GAGA-HUMAX
 
▼怪人は死ぬしかないのか?
 映画『オペラ座の怪人』を観て、まず私が思い浮かべたのはハンセン病のことだった。『オペラ座の怪人』は、人の姿、カタチを理由に、一般社会が時にその人の行く末を決定づけてしまうという事実を背景にしている。
 社交界の象徴であるオペラ座の豪奢な「表舞台」と、社会から見捨てられ、かつては「生ける屍(しかばね)」として見世物小屋のオリにすら入れられていた男の嘆き、そして怒り。この激しい対比の底にあるのは、ハンセン病に代表される病への一般社会の無理解と、患者、回復者に対する一方的な恐れなり忌避(差別)である。
 もちろん原作にも今回の映画でも、ファントムがなぜその姿となったかは説明されない。ただ、恐ろしい悪魔のような生き物かと思っていたら、その正体は自分の姿に苦しむ「ナマの人間」だったという、一種のヒューマニズム(?)をにじませながら物語は終盤を迎えるのである。そして、一方的であれ命を賭けて愛そうとしたクリスティーヌから、おそらく生涯初めての口づけをされたのち、彼は自分が犯した罪を背負って死を選ぶのだった。
 ファントム(ジェラルド・バトラー)やクリスティーヌ(エミー・ロッサム)らによる情熱的な歌唱が、この悲しみに一層の深みを与えている。
 しかし、このようなファントムの描き方は、つきつめれば健常者からの視線ではないのだろうか。結局ファントムは死に、美しい歌手は子爵と結ばれるのだから。21世紀バージョンの最新『オペラ座の怪人』であるなら、ファントムがクリスティーヌと本当に結ばれるという筋書であっても良かったかも知れない。ウェバーほどの才能のある人であれば、きっと不可能ではない(だがそれじゃ「絵」にならないよ、という声が聞こえてきそうだが、それこそが一般社会が社会的弱者に対して押し付けてきた「常識」なのである)。
 映画『オペラ座の怪人』は、物語の始まりを1870年としている。それから3年後の1873(明治6)年、アルマウェル・ハンセン博士が「らい菌」を発見、ハンセン病は遺伝病ではなく感染症であることがわかった。
 神出鬼没の怪人がオペラ座に集まる貴族らを震え上がらせていた当時、ヨーロッパ社会はハンセン病の理解に向けて一歩を踏み出したばかりだったのだ。
 
▼チェ・ゲバラのバイク旅行
 日本において「(改正)らい予防法」が公布されるのは、それからちょうど80年後の1953年のことである。すでに治る病気として新薬が発明されているにもかかわらず、1907年の旧法以来、日本での患者、回復者は、強制隔離され療養所で一生を終えることを余儀なくされていたことはご存知だろう。
「らい予防法」が廃止となるのは1996(平成8)年だった。
 現在公開中の映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』(日本ヘラルド)は、オペラ座の時代から現代までの、ハンセン病の簡単な流れを知った上で見ると、なかなかに苦く、しかも感動的である。
 
Herald
『モーターサイクル・ダイアリー』はチェ・ゲバラの若き日を描いた映画である。ゲバラはキューバ革命を成し遂げたのち、ラテン・アメリカの解放のために、さらにボリビアへと向い捕らわれ銃殺される。享年39歳。この映画は、革命家としてその原点となったという友人と二人で決行した20代の文無しバイク旅行のありさまを描いているのだ。
 彼の母国であるアルゼンチンから、チリ、ペルー、コロンビア、ベネズエラと南米を北上する無鉄砲な旅である。ヨーロッパ的な町並みのブエノスアイレスから大平原(パンパ)へ、そして極寒のアンデス、アマゾン河へと、景色はめまぐるしく変わり、それと平行して言葉(各地のスペイン語、ケチュア語)も音楽も変わってゆく。
 ラテン・アメリカの音楽が好きな私には、まずそのローカルな雰囲気、匂いがたまらない。監督(ウォルター・サレス)らは、撮影のために3度もこの大陸を縦断したというから、その成果が映画の「体臭」となって染み付いていると言えるだろう。
 旅は、インディオと出会うあたりから深い陰影を帯びてくる。白人支配層に搾取され、苦悩し貧困にあえぐインカ帝国の末裔たち。実直な医学生ゲバラは、自分が何をすべき存在であるかを、学び始めるのだった。
 映画のクライマックスは、アマゾン河畔のハンセン病療養所(ペルーのサン・パブロ)でのボランティアである。ゲバラは療養所の規則を破り、患者と素手で握手をする。医者のタマゴであるゲバラと友人は、ハンセン病の感染力は極めて弱いことを知っての行動だった。時は1952年。療養所の規定は、患者と接する時は手袋をしなくてはならず、しかも患者たちの住居は看護士の治療棟とは別に、河の向こう側にあった。
 ゲバラは生前、彼らのような孤独と絶望を抱えた人たちの間にこそ、真の連帯と信頼が存在する、という発言を残しているが、都会育ちの秀才はこの地で抑圧された人々の解放を意識し始め、「ラテン・アメリカは一つ」というテーマへと結びついてゆく(すでにその意識の一端は、療養所で迎えた24歳の誕生日会でのスピーチでも示されている)。
 そしてゲバラは「河を渡った」。誕生日を、河の向こうに閉じ込められている仲間(患者)と一緒に祝いたいと、真夜中のアマゾンを喘息持ちのゲバラが、息を切らし危険を冒しながらも泳ぎ着くのである。ゲバラ役のガエル・ガルシア・ベルナルがいい演技をしている。
 だが、そんな革命の季節から50年後の今、サレス監督はラテン・アメリカの現実はゲバラが生きていた頃とさほど変わっていないのではないかと言う。
 ハンセン病回復者に対する差別も、日本を見れば分かるように未だに根深いものがある。
 二つの映画から、解決されない重い歴史を学んだように思う。
(初出『解放新聞埼玉』2004年11月1日付)
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amazon.co.jp-エルネスト・チェ・ゲバラ著 『モーターサイクル・ダイアリーズ』

( 2004/11/21 )

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