<1997年11月>
記録破りとなった映画『もののけ姫』を観てきた。
宮崎 駿 監督の集大成作品と言われるだけあって、非常に力のこもった映画だった。
人類は取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという絶望を軸に、いま一度、ヒトの生と自然をとらえなおす作業を、子どもにも大人にもわかりやすく「楽しめる」ものとした宮崎監督の熱い執念は、たいしたものである。
米良 美一によるテーマ「もののけ姫」が聞こえてくるラストですら、ほとんどの人が席を立たなかったというのも、それだけこの映画がみんなの心に強く響いたからだろう(これは公開全館からの集計でも同じ傾向を示しているそうである)。
音楽の観点からしても、ぼくにはいろいろと考えさせられることがあった。というのは、アイヌからアイデアを得た主人公や漂泊の製鉄集団など、これまでの歴史映画では軽視されてきた人々を全面に押し出した『もののけ姫』では、当然のように音楽も「非日本的」であらねばならない。なぜなら、三味線や尺八を登場させれば、とたんにかつての「侍と農民だけの映画」のイメージが付着してしまうからである。
宮崎作品の多くで音楽を担当してきた
久石譲は、この危険性を西洋のクラシカルなオーケストレイションで回避した。「なんだそんな映画音楽なら、過去にも一杯あるじゃないか」と言われそうだが、実は彼の音楽には、ヨーロッパの民俗音楽(大衆音楽)やアフリカ音楽の血がしっかりと流れている。形式は間違いなくクラシックだが、深いところでは世界の民俗的なセンスを久石は反映させている。これが、『もののけ姫』のイメージにさらなる広がりを与えたのだとぼくは思う。先日、
久石 譲 と会った時も、「自分の音楽的ルーツは西アフリカのガーナなんですよ」と言っていたけれども、なるほどな〜のぼくであった。
だが、ほんらいならば日本の民俗的音楽の象徴であるはずの三味線なり尺八が、こういう映画になると取り除かれてしまう、そして、そのことを納得できてしまう我々の心理というのは、やはり「取り返しのつかないことをしてしまった民」の証明なのだろうか。何もぼくは伝統を固持するべきだとは思わないが、日本の音楽文化の基盤を、我々はどこかで捨て去った、あるいはネジ曲げてしまったことは確かではないだろうか。『もののけ姫』は、そういう点でも意義深い映画だった。
『もののけ姫』には、動物に形を変えた荒ぶる神も登場する。イノシシ姿の
乙事主 (猪神)がその役なのだろうが、大量の血を流し配下のものたちと爆走する乙事主を観ていたら、ぼくは
喜納昌吉のことを思い浮かべてしまった。
ご存知のように
喜納昌吉は、「花」の大ヒットを持つ沖縄のロック・シンガーである。と同時に
喜納昌吉は、その美しいバラードのイメージには似合わず(?)、今の日本の人気音楽家の中では極めて特異な存在である。反戦地主と一緒に駐留米軍の通信基地に座り込んだり、また人種差別、反核といった大問題から、日本のミュージシャンのふがいなさにいたるまで、彼は歯に衣を着せない。まぁ、だからこそ故郷の沖縄でも変人扱いなのだが。
基地問題に関わり、アイヌ問題に関わり、世界の運動家と関わることで、彼の心には怒りが膨らんでゆく。何とかしなければのその思いと、周囲の「過激派・喜納」を見る冷たい視線が、彼をますます乙事主へと変化させてゆく…ちょっと極端かもしれないが、新作『すべての武器を楽器に』の激しさを聞くと、それはまんざら外れてもいないとも思うのである。
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