この原稿は、連載<MUSIC REWIND 東京音楽通信>に記載された
マリア・カラスの記事へ、映画評2本を加筆したもの。後半がオリジナル原稿。
<2003年9月>
*1 『フリーダ』*
この夏に、東京では連日盛況の映画を、続けて2本観た。
1本は、歴史的な
オペラ歌手の晩年をテーマとした『永遠の
マリア・カラス』(フランコ・ゼフィレッリ監督)。もう1本は、身体に重いハンディキャップを抱えながらも素晴らしい絵を描いたメキシコの画家、フリーダ・カーロの伝記作品『フリーダ』(ジュリー・テイモア監督)である。
ヨーロッパ・クラシックにおいて頂点に立った歌手と、20世紀のメキシコ絵画〜文芸運動のまっただなかで活動した画家の作品とあって、演じ手はもちろんセット、衣装など、ともに力のこもった作品であり、特に女性に話題となったことが納得できる作品だった。 ただ、残念なことに、この二つの映画には大きななキズがある。数奇な運命を辿った二人の女性の人生を、ある意味で現実の彼女たちの迫力に負けずに描こうと、どちらも練った演出がなされてはいるが、肝心のスタート地点でつまづいている。
『フリーダ』で言えば、舞台はメキシコであるのにもかかわらず中心言語は英語なのである。欧米という大マーケットを意識している作品だから、と言えばそれまでのことだが、メキシコ人が自主独立に向けて熱く燃えた時期の女傑、フリーダ・カーロが、日々をアメリカン・イングリッシュで生活していたのだろうか? この疑念が、最後まで残る。
おそらく『フリーダ』における英語の使用は、メキシコを描きながら、メキシコ独特の文化的特性(平たく言えば臭み、体臭)を中和しようという狙いもあったのではないか。それは、世界的な作曲家、エリオット・ゴールデンサルによるサウンドトラックにも表われている。メキシコ音楽らしい体臭を薄めた、形ばかりの歌なのだ。特に、ブラジルの
カエターノ・ベローゾによる主題歌は、自在性の足りないこの人物の歌手としての特性と限界が見えてしまっている(ゴールデンサルはこのサントラでゴールデン・グローブ賞とアカデミー賞作曲賞を受賞)。そこにフリーダは存在しない。
これらの要素があいまって、たしかに映画『フリーダ』はメキシコとその土壌から生れた画家を描いてはいるものの、それはアメリカ合衆国の「一部」としてではないのか?という指摘も可能だろう。
*2 『永遠の
マリア・カラス』*
一方の『永遠の
マリア・カラス』は、その晩年、声が思うように出なくなったカラスを、過去の彼女自身の録音に合わせてクチパクで歌わせようとするという設定である。
彼女が亡くなったのは1977年のことだが、1970年代というのは録音技術が急激に発展した時代だった。ロックやポップ・ミュージックではユニークな実験や、遊びなりトリックが様々に行なわれていた。しかしカラスは、そんな世界とは正反対の「ヨーロッパ音楽の権威の頂点」に住まいしていた存在だった。
カラスが、昔の声に合わせ、劇中劇として「カルメン」を演じるというのは、一見面白そうではあるが、ありえない。人生に苦悩し絶望の日々を送っていたカラスが、友人であるロックのプロデューサーの口車に乗って、最後に残された「女王」としてのホマレに自らがツバを吐きかけることなど、するわけがない。それを「復活」のきっかけにとカラス自身が決意するというのは、
マリア・カラスなる存在に対してはなはだ失礼じゃないか。
もちろんこの映画は、その部分だけがすべてではない。しかし、かの御大フランコ・ゼフィレッリたる人物が、歌手なり舞台パフォーマーなりの基本的な気持ちを分かっていなんじゃないか?という疑問は、『永遠の
マリア・カラス』という映画を、単なる美しいファッション・フィルムのレベルに堕としてしまったと思う。
<1998年2月>
少し時期を逸した感があるが、昨年は
マリア・カラスの没後二十周年だった。ご存知の方も多いと思うが、彼女は
オペラの伝説的なシンガーで「今世紀最高のディーバ」として多くの足跡を残した人物である。
一九二三年、ニューヨークでギリシャ移民の子として生を受け、若い頃からその才能を認められて、
オペラ界の頂点に立った。と同時に、イタリア大統領が臨席した公演を、何の理由があったのか一幕だけで降りてしまい、それがきっかけで名門のミラノ・スカラ座から放り出されてしまうなど、色々なドラマを持った人でもあった。晩年はパゾリーニの「女王メディア」に出演するということもあったが、目立った活動はスカラ座のトラブル以後かなり減ってしまい、恋人であるオナシス(ギリシャの船舶王)の庇護を受けながら生活をしていたこともあった。
その歌の素晴らしさはいうまでもない。アリアのベスト集である『デ・ヴィーア』や『
マリア・カラス エヴァー! ロマンティック・カラス』(写真)は入門用として最適であろうし、歴史的名盤として名高い『ドニゼッティ:歌劇「ランメルモール」』はすさまじいとしか言いようがない。
近頃はクラシックや落語の全集が、思った以上に売れている。その理由は、この世知がらい時代に、ゆったりとした時間を持ちたいと願う人たちが増えていることの反映のようである。映画『
もののけ姫』でテーマ曲を歌った
米良美一が、一挙にスターになったのも、もちろん映画の影響抜きには語れないが、こんな時代の要求がバックグラウンドにあるはずだ。女王
マリア・カラスの歌声も、そんなささくれ立った気分に潤いを取り戻させてくれるに違いない。
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