今年(2007年)の「
琉球フェスティバル・東京」に八重山歌謡を代表するシンガー、
大工哲弘が出演する。2000年、喜納昌吉と一緒に出演したとき以来の日比谷野音である。
大工さんはアルバム『ウチナージンタ』ほかの作品でウチナー・ポップの90年代を牽引した一人だが、中でも彼がリバイバルさせた「沖縄を返せ」はウチナーンチュがヤマト(あるいは日本政府)に向かいその思いを込めた歌として大いに注目された。
そんな彼が2004年、皇居で開かれた天皇の古希の祝いに出演し、それが一部の人たから批判を浴びることともなった。
東京・日比谷での久しぶりの大舞台、大工さんは今、何を考えているのだろうか。
(文・藤田正)
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―少し前の大工さんは、三線一挺持ってアフリカへ行ったり、南米へ出かけたりと、飛び回っている印象でした。いろんなジャンルの人たちとの共演も多かったですが。
「今は、島唄が中心です。これまでコラボレーションも多かったですが、それは別の方に任せるとして、私はシンプルにやろうと。あと、全国にいる弟子たちを指導することで忙しいということもあります」
―お弟子さんはけっこうな数だと聞いてます。
「500人ほどかな。最初の琉球フェステイバル(70年代)の時代から色々とやって、種を撒いてきたことが実を結んだんだと思います。でも私は自分から弟子を勧誘したわけじゃなくて、相手から教えて欲しいと。その積み重ねです。今では沖縄へ移住してまで歌を学びたいという人も出てきて、現在で10人ほどいますよ。まだ増えそうな感じです。しかし、これほどみんなが熱狂的だとは思いもしなかった」
―大工さんの指導力ですか。
「いや、みんな沖縄が好きだ、ということでしょ。私はその扉を開いただけ、サポートしているだけです」
―
琉球フェスティバルは久しぶりですね。
「(喜納)昌吉と一緒に出て以来。私はもっと出たかったんだけどね。昔も同じ日比谷でやったわけですが(72年から74年の第1期の琉フェスのこと)、今年のライブはその原点に立ち戻ってやろうと思ってます。
琉球フェスティバルは、日ごろできないことを試す場でもあるんだけど、私はシンプルに、23歳で八重山の麒麟児と言われた時代に立ち戻ってみたい」
―2004年に皇居へ呼ばれたわけですが、これについて「あの大工さんが」という批判の声も上がりました(天皇の古希の祝いに全国から芸能者が招聘され、皇居・桃華楽堂で公演が催された)
「これについてはコメントを控えたいんだけどね……物議が広まって、でもあのときは働いてもいたし、ちゃんと発言もできなかった」
―大工さんは那覇市役所に勤めていたから(昨年の3月末で定年退職)。
「太平洋戦争のことなど、もちろん私にも言いたいことはたくさんあります。色々考えたし、おふくろに話をしたら『古希のお祝いなんだから、行ってらっしゃい』と言ってくれた。だから決めました。私の個人的な思想、信条ででかけたんじゃない。沖縄から平和を訴えることのできる直接の機会じゃないですか。だから、心を合わせて平和を願う『
トゥバラーマ』の歌詞も作って行ったんです。外からコブシを上げて叫ぶのもいいかも知れないけれど、歌一発で伝えることができる。(反対する人たちは)音楽の力をわかっていないんじゃないかな」
―反応はどうでしたか。
「催しが終わってから園遊会のようなものがあったんですが、(天皇は他の出演者とは違って)私とは特別に話をしてくれました。『本当に沖縄はごくろうさまでした』と。(催しが終わって)私はむしろ歓迎してくれるものだと思ってました。でも出演が決まっていたあるコンサートでは、私が皇居で歌ったというのでキャンセルになったりしました。それがとても残念です」
(2007年4月25日、電話によるインタビュー)
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大工哲弘公式サイト:
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