The History Of James Brown:アメリカ音楽史とともにJBが歩んだ軌跡
文・藤田正
リットーミュージック
 肩書で人を判断することなかれ、とは言うけれども、ジェイムズ・ブラウンは、人はカタガキで他人を判断することを知っている人だった。
「ミスター・ダイナマイト」「ショウ・ビジネス界で一番の働き者」「ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン」「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ファンクの父」…彼にはたくさんの別名なり名刺なりがあって、それらは彼のステイタス、そして個性をよく表わしていた。オレは、ここにいる! いつも、ずっと、自らがそう主張し続けることで、彼は「王者JBとしての人生」を生き抜いた。73年間の人生を、アフロ・リズムと共に…。
 ジェイムズ・ブラウンは文字通り叩き上げのシンガーだった。単に歌に才能があっただけではない。「生き馬の目を抜く」のがショウビズの世界であり、それはブラックであればなおのこと厳しい。JBはこの冷徹とも言える認識をもとに自己のバンドとその音楽を統括した人物だった。
 ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン。1933年、南部のサウス・キャロライナ州に生まれる。極貧からのスタートである。彼は幼い頃に両親の離別を経験し、マチを徘徊し、賭博、売春、密造酒といった「悪の現場」に首を突っ込む。そして15歳の時に強盗で逮捕、刑務所送りとなる。刑務所ではゴスペルのコーラス・グループを結成するのだが、これがのちのフレイムズ(フェイマス・フレイムズ)の母体となった。
 40年代後半から50年代にかけてのブラック・ミュージックは、本来は水と油のゴスペルとブルースが混ざり合い「リズム&ブルース」という新しい感覚が主流となった時代だった。中でもレイ・チャールズやジェイムズ・ブラウンといった存在は、その最新のスタイルを世に提示した人物だった。例えばジェイムズのデビュー・ヒット「プリーズ・プリーズ・プリーズ」(56年発表)などは、ゴスペル教会の白熱する説教を、そのまんま恋の歌へ移し代えた形式だった。今となっては当たり前のこのスタイルだが、しかし当時のアメリカでは不謹慎きわまりないシロモノ。R&Bの傍系であるロックンロールも含めて、50年代以降のアメリカン・ポップは、不謹慎&不道徳を(主流社会にむけて)どうぶつけるかがカギだったとも言えるのだが、ここに、完璧無比に「ストリートの男」であったジェイムズ・ブラウンの華々しい出番があったのである。彼は「反社会的」を知り抜き、芸能という社会の本流を目指して虎視眈々と音楽を作ってゆくことになる。
「プリーズ・プリーズ・プリーズ」から、58年の「トライ・ミー」、「ビウィルダード」(61年)、「プリズナー・オブ・ラブ」(63年)へと続く初期のJBは、しかし(今から聞きなおすと)ドゥワップ・コーラスをバックに付けて、ゴスペル的な熱唱を得意とするシンガーだったと手短にまとめることができる。黒人街の若きスター・シンガーの一人であったジェイムズが、黒人も白人も関係なく影響を与える巨大な「リズム改革の人」となるのは、「アウト・オブ・サイト」(64年)、「パパズ・ガット・ア・ブランド・ニュー・バッグ」(65年)からの時代である。
「アイ・ガット・ユー」(65年)、「コールド・スウェット」(67年)、「セイ・イット・ラウド・アイム・ブラック・アンド・プラウド」(68年)、「セックス・マシーン」(70年)、「スーパー・バッド」(同)、「ソウル・パワー」(71年)…と続くアフリカン・ポリリズムの新解釈、すなわち「ファンク」は、ブラック・ミュージックは(そのボーカルもふくめて)すべてがリズムにルーツがあり、リズムそれ自体がメロディを生み出し、リスナーにも激しいスリルを与えることを証明したのだった。特に彼のバンド、JBズのベーシストであったブーツィ・コリンズらによるエレクトリック・ベースの改革は、ブラウンのスパルタ式バンド・プロデュースがあってこその成果だった。
 そして、これら大ヒットの題名(肩書)にも注目してほしい。彼はどんなに凄い歌でも、カタガキがどれほどの力を持つかを知り抜いていた。ソウルのゴッドファーザーは、黒人下層社会の「カッチョエー(ヤバめな)言葉」を多用することで、主流社会に切り込み、ついには歴代のアメリカ大統領ら政府要人すら一目を置く黒人社会の代表者の一人となったのだった。
 70年代のディスコ時代、彼はそこそこのヒットだけでお茶を濁していた時期があった。しかしジェイムズ・ブラウンは、孫のようなヒップホップ世代が台頭した時、再び彼は上昇気流に乗る。そう、84年のアフリカ・バンバーターとの共演「ユニティ」! それは、彼がヒップホップ世代の「父」であることを多くの人たちが認めた大ヒットとなった。そしてその勢いをかって、晩年の最高のヒットである「リビング・イン・アメリカ」(85年、『ロッキー4/炎の友情』のテーマ)が登場する。この曲は「ディスコ・ミュージックの教科書」と言ってもいい、見事な作品。さすがリズムの権化、JB師だけのことはあった。
 …あの有名なマント・ショウ。マイク・スタンドをもダンスの一部としたステージ・パフォーマンスはロッド・スチュワートらを経て、日本の歌謡曲の振り付けにも影響を与えたジェイムズ。私生活は、麻薬に溺れ、家庭内暴力で投獄されるなど、あまりいいニュースを聞かなかった晩年の彼だが、音楽そのものは、アメリカ黒人文化の真の意味での「遺産」に違いはない。
(初出:『BASS MAGAZINE』2007年3月号 リットーミュージック)

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( 2007/04/04 )

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