<1998年8月>
"あんなに愛し合った"と
何度も確かめ合い 信じて島を出たのね (詞・こっこ「強く
儚い者たち」)
Coccoというシンガーが人気を呼んでいる。外資系の大手CDショップからCDを発売したのが三年前。それから、あれよあれよという間に若い人たちの強い支持を得るようになった。ここに挙げた歌詞は少し前に発売されたシングルで、今年上半期にヒットした曲の中では最高の部類に入るものだとぼくは思っている。
御存知の方も多いと思うが、
Coccoは沖縄の子である。メジャー移籍直後の彼女は、ちょうど
安室奈美恵が全盛だったことも原因したのか、レコード会社は彼女が沖縄出身であることがメディアによって広まることをずいぶんと嫌っていた。ずいぶんとムダな発想に思えたものだ。なぜなら、先の「強く
儚い者たち」が収録された『クムイウタ』(写真)は、アルバム・タイトルからしてが
沖縄言葉(意味は「子守り唄」)なのだから。オープニングを飾る「小さな雨の日のクワァームイ」にも「芽吹いたゴーヤー」という言葉が出てくる。
Cocco自身は、沖縄的であることをデメリットだなんてさらさら思わず、逆にはっきりと主張している。
そして「強く
儚い者たち」である。人は前を進むためには何かを捨てざるを得ないという視点を、彼女は実にメランコリックに歌い上げるのだが、途中に出てくる「信じて島を出たのね」という文句には、(ぼくは
ウチナーンチュじゃないけれども)ほろりときてしまった。
おそらくこれは彼女自身の現在のことを言っているのだろう。同時に、長い
ウチナーンチュの移民・移住の歴史ともぼくには重なって見える。「島」とは、これも沖縄ではよく使う「シマ(我々の領域、コミュニティ)」でもある。そんな、「島」という言葉の響きがこの歌は素晴らしいのである。ぼくは沖縄びいきだから相当に勝手な解釈だと思うのだが、こういう発想は、沖縄人ならではじゃないだろうか。
「愛する人を守るため 大切なもの築くため 海へ出たのね」(同)
ではこの「海」ってなんだろう。まぁどうにでも理解できそうではあるが、「島」と関連づけて考えたばあい、この歌が単なるラブ・ソングじゃないことが想像出来るのである。
自分が住んだ場所(シマ)を忘れずに歌を作り、「なんでもないように」歌う。だが、だからこそ、その歌には味わいが生まれる。「強く
儚い者たち」はその典型のような曲であろう。
ぼくは現在の音楽的状況を決して全面的に認めているわけではないが、「強く
儚い者たち」のような自由は、まだ沖縄にずいぶんあると思う。そのもう一つの好例がザ・サーフ・チャンプラーズの「TOSHIN DOI(
唐船ドーイ)」である(『チャンプラーズ・ア・ゴーゴー』クワッチー・レコード QRCD002に収録)。
この曲は2年前に発売されたものだが、今秋に公開される宮本亜門が監督した映画『BEAT』に使われる。
「
唐船ドーイ」は、
沖縄音楽が好きな人なら誰でも知っているエイサー祭の大スタンダード曲だが、これをエレキ・ギターでベンチャーズみたいに弾きまくったのが「TOSHIN DOI」なのだ。寺内タケシの沖縄・平成版と思えばいいのだが、楽しさだけを追求したような爽快感は、お見事。演者は大和人だが、沖縄の自由な「毒気」にあてられて、思わずハジけた!という曲である。