レイ・バレットは
ファニア・オール・スターズの中核をなしたコンガ奏者だった。
ブルックリン生まれで、両親はプエルトリコ系、彼は陸軍を除隊してからティト・プエンテのラテン・オーケストラやたくさんのジャズ・セッションに参加して、1960年代の初頭ともなるとニューヨーク系のパーカッショニストとして有名な存在となっていた。
バレットが自分のバンドを率いて「エル・ワトゥーシ」をヒットさせるのが1962年のこと。「エル・ワトゥーシ」は、ニューヨーク・ラテンがサルサと名を変えて新しい「現象」となる60年代末あたりまで、バレットの代名詞のようなダンス・チューンだった。ちょうどこのアルバムが、その「境目」だったと言うことができるだろう。
60年代のニューヨーク・ラテンを特徴づけるスタイルの一つに、バイオリンを複数名組み入れた、いわゆる「チャランガ」という編成がある。もともとはキューバの優雅なダンスのお供となったスタイルだが、これがニューヨークの下町へ輸入されてからは、ずいぶんバタ臭い衣装をまとうようにもなって、そこから、R&Bチャートにもばっちり in した「エル・ワトゥーシ」なんかが生まれてきたのだ。
スタイルはキューバンにもろに根ざしてはいるんだが、音楽って環境がすごく大事だから、使う言葉にしても思わず yes, baby!なんて米国コトバが混ざったり、ビート感覚にしてもソウル的な8ビートをブレンドしてしまったりと…どんどんキューバ音楽の鬼っ子として急成長してゆく。60年代ニューヨーク・ラテンの面白さは、そういうところにもあって、レイの『ラティーノ・コン・ソウル』もばっちりその路線にある秀作なのだ。
なにしろ題名から「ソウルあるラティーノ」ってんだから、まさしく「あの時代」だ。つまりアルバムが録音された1967年は、当時、ソウル・ミュージックの象徴になりつつあった
オーティス・レディングが事故で亡くなってしまう年でもあって、ロックはロックで、あの「ウッドストック」へと向かって、どんどん巨大音楽ビジネスとしての可能性を膨らませていた青春の季節だった。
『ラティーノ・コン・ソウル』のリード・ボーカルは、アダルベルト・サンティアーゴ。ティンバーレスにオレステス・ビラトー。第一トランペットが、ロベルト・ロドリーゲス。彼らは(親分のバレットも含めて)すべて
ファニア・オールスターズに参加するわけだから、ニューヨーク・ラテンでバレット組がいかにbig beatをぶったたいていたかがわかる。
「トロンペータ・イ・トロンボン(トランペットとトロンボーン)」がその証拠の一つ。そう、
ファニア・オールスターズの名演として有名な「デスカルガ・
ファニア」のオリジナルがこれなのだ。メンバー全員が一丸となって向かってくる、その力強さ、激しさという点では、スター組FASのそれよりも、こちらのほうが上を行くかもしれん。
後方でバイオリン部隊がえんえんと同じリフを重ねる前で、tpもtbも跳ねるわ飛ぶわの熱演が繰り返される。ティンバーレス&ベース&コンガetc.のガッツあるコンビネーションもさすがハード・ハンズと呼ばれたバレットだけあります。
で、こういう演奏って、まさしくストリート・ニューヨークから生まれたんだよね。
どこか気ぜわしくて、カリブの潮の香り…なんてイメージよりも、地下鉄の騒音が似合う音楽。タイトル・ソングや「ドゥ・ユー・ディグ・イット?」などのブーガルーやシンガリンなどはその典型だけど、
ティト・ロドリーゲスの名唱で知られる「ロ・ミスモ・ケ・ア・ウステー」にしても、泣かせのボレーロのくせに攻撃的な視線が消えることがない。
どこかアブない『ラティーノ・コン・ソウル』。それはサルサの第一期に、常につきまとった命題だったと言えるのかもしれない。
(藤田正)
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『ラティーノ・コン・ソウル』