文・藤田正
マイケル・ジャクソンの訃報を最初に耳にしたのは、六月二六日早朝のラジオ番組だった(日本時間)。少しして、七時も過ぎると、たくさんのメディアが死亡確認のニュースを流し出した。その多くには「驚いた」のコメントが付いていた。
ぼくは驚かなかった。なぜなら一二年もの間、彼の第一の仕事であるべき大公演ができず、あの人の最新レコーディングっていつのことだっけ?という状態のマイケルだったではないか。この長い年月に、ぼくらが知り得たのは、巨額の負債があるやら、子どもらに対する性的虐待やらと、どんよりとしたゴシップばかりだった。その点において、確かに彼は死に際してまでも「スーパースター」であり続けたが、「アーティスト」としての内実は刻々とゼロ・ポイントへ向かっていたはずである。
あるいは、かつての黒い肌のハンサムが、真っ白な肌をした「存在」へと人体改造する過程を見るにつけ、かよう多種多様なる負の激烈を愛する男が、長寿をまっとうできるのだろうかとぼくは思っていた。来るべきものが来た、のである。
マイケル・ジャクソンが、アーティストであり同時にスーパースターでもあったのは、一九八〇年代を中心とした時期だった。その最大のポイントが、七九年のアルバム『オフ・ザ・ウォール』から八二年の『スリラー』への流れであり、何より後者『スリラー』は全世界で一億四〇〇万枚も売ったモンスター作品となった(ギネス記録)。
今からすればこの『スリラー』の、誰の想像をも超えた商業的成功が、彼を変え、世界のミュージック・ビジネスをも変質させてしまったように思える。簡単に言えば、二一世紀に向けてポップ・ミュージックが衣替えをすることを、彼はその作品の中で実に楽しく予言したのだった。
すなわち、音楽ビデオに象徴される映像と音楽とダンスとの合体、ラップなどヒップホップ音楽の台頭、そしてすべてがデジタルに変換されその変換が商業音楽の実体をも変えてしまうことを、未だアナログの時代にあって、マイケルと、プロデューサーを務めた
クインシー・ジョーンズの二人が示したのである。安室奈美恵であれEXILEであれ、この意味において、今の日本の人気者にしても、多くはマイケルの「孫・ひ孫」であり悪く言えば「複写」に過ぎない。
『スリラー』に収録された「ビリー・ジーン」がヒットしていた八三年、日本に初めて、ニューヨークからラップ集団がやってきた。この伝説のライブを取材したぼくは、DJが「ビリー・ジーン」のイントロをえんえんと繰り返すことに驚かされた。メンバーはそのビートに合わせてラップし、一丸となって激しく踊るのだった。
マイケルの「出番」は、あのトレードマークの「ヒッ」というシャックリ声だけ。「ヒッ」が聞こえたらDJは直ちにレコードをアタマへ戻す。ではマイケルが「そこにいない」のかと言えば、彼はぼくらのイメージの中ですでに歌い踊っているのだ。ぼくらはマイケル&「ビリー・ジーン」を、それまでに各メディアでつくづくと見知っているから。「ヒッ」だけ、の衝撃。
それは、アメリカを中心とするグローバルな商業音楽が、映像や(のちに普及する)インターネットらと複合することにより、さらに業績を拡大しようとしたそのスタート地点に、マイケルが立っていたということなのだ。
マイケルがスゴいのは、この世紀の音楽的大転換を、シンガーとして歌い示せるほどに高い技量と感性を持っていたことにある。彼は徹底した人体改造を行なった人物だったが、その第一歩は、少年時代のゴスペル系「黒人シンガー」としての天賦の才を捨てたことにある。歌手として、二つの時代の声(アナログとデジタル)を使い分け、さらに頂点に居つづけた歌手を、ぼくはマイケルの他に知らない。
マイケルはそして、アメリカ音楽史上初めて、黒人がヒット・チャートを支配する時代を築いた象徴でもあった。人種の壁をやぶった偉大なる「白い肌」。オバマ大統領の登場も、マイケルらの歩みなくしてありえない。
*初出:「週刊金曜日」2009年7月3日号(757号)
*書評「西寺郷太著『マイケル ・ ジャクソン』の中身」(文・藤田正)と併せてお読みください。
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