<1998年3月>
十代による傷害、殺傷事件があいついでいる。ナイフの販売規制をしろとか、学校での持ち物検査を徹底しろとか、あるいは耐えることができない子が増えたとかと、ずいぶん議論がなされている。確かに人をあやめることはアカンことに違いないが、規制などしたところで「子どもの暴走」が収まるとは、ぼくにはとても思えない。別の方法はどこにでも転がっているわけで、きっと彼らの中からまた「キレる」子どもが出てくることだろう。
ぼくはもはや青年と呼べる年齢から遠く離れてしまったけれど、音楽の世界に携わっていることもあって若年層の気持ちは少しぐらいは理解できる。一般論にしか過ぎないが、彼らの心は非常にさめている。学校制度の締め付けは以前に増して厳しく、じゃあなぜ学校に通うのかと考えても、自分の親をふくめ大人たちは、ロクでもない奴ばかりだ。たとえば自分の同級生の女の子をカネで買う親はいるわ、先生は生徒を犯すわ(東京では頻繁にある=中学校の現役先生の談)、贈収賄なんてザラ。いったい自分の未来どうなんの? アホらしい、という考えになっても不思議ではない。だから殺人へ…というのは特別な事態ではあるが、このような基本的な構造を変えない限り、何も変わらないはずである。
今月、この欄に持ってきたのも、そんな十代の歌い手たちである。
十代のシンガーというと、日本ではまずアイドル系ということになるけれども、海の向こうのアメリカでは少し印象が違う。これが十代か? と目を疑うような実力派がどんどん登場してきているのである。
たとえば弱冠十四歳にして、
グラミー賞における「最優秀新人賞」と「最優秀女性カントリー・シンガー賞」を獲得したリアン・ライムス。
その堂々とした容姿の最新アルバム『ユー・ライト・アップ・マイ・ライフ』(写真)を輸入盤店で初めて見かけたときは、傍に付いていた日本語のコメント・カードが全くのウソに思えたほどに、信じがたかった。とても一九八二年に生まれた子どもには見えなかった。そして、彼女の歌を聞けばなおさらである。なにしろ、出世作となり五〇〇万枚を売ったという『ブルー』を作った時が十三歳。この非常に安定感のある大人の歌声は、いったいどうして? と、誰もが感じるに違いない。
リリアン・ライムスは南部生まれの白人だが、黒人となると十代の才能は目白押しとなる。中でも近頃の話題は、キンバリー・スコットという十一歳のお嬢さんだ。
彼女のデビュー盤『キンバリー・スコット』(ソニー SRCS8520)がまた、見事に大人のヴォーカルなのである。何の情報も与えられずに聞いたら、この歌手が小学生の年齢だとは絶対に想像できないだろう。キンバリー・スコットは四歳の頃から教会で鍛えられたとは言うものの、それにしても、どうしてこんなに歌えるのだろうという印象なのである。
もちろんアメリカにも昔から十代の歌える歌手はいくらでもいた。マイケル・ジャクソンはその筆頭だろうが、彼らは歌は抜群でも、声はキッズそのものだった。可愛いかった。だが、キンバリーたち現在のキッズ・スターは、おしなべて「大人の成熟した声」で攻めてくる。
この背景には、年齢がどうであれ自立した個人であることを強く求めるアメリカ文化が存在するはずだが、ここ五年ほどに現れたこのような際立った変化を見ていると、ラップも含め、このマセた声は大人に対する「ナメんなよ」という反抗の声じゃないかとすら思う。
歌のバタフライ・ナイフ、とでも言えばいいのだろうか?
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