ゼロと無限大が交差する場所、
辺野古に、フラワーズが吠えた
文・藤田正
音楽に何ができるのか。ミュージシャンに何が歌えるのか。はるか、いにしえのロック時代から、二つの設問は繰り返されて一度たりともまともな答えが出ることはなかった。
だが、コトは簡単なことのように思うのだ。歌は権力ある者の側にはなく、歌は持たざる者、現世に苦しむ人たちの心の中にこそあって、歌は歴史的に彼らのなかで熟成・醗酵してきた。答えの根は、そこにある。ぼくらが今知っているほぼすべての音楽がその「根」とつながる。だから、音楽に何ができるのか? ではなくて、なぜ歌手は歌うのかであり、それは母体へと回帰すること、その激しい衝動なのである。
沖縄の拝所を訪ねればわかるが、根とつながる場所には何もない。殺風景な空間だけがあって、ぼくらはそこで過去と永遠を感じることだけを求められている。そして、昨年(2007)の2月、
辺野古の浜辺にも拝所ができていたんだね。そう思うのはぼくだけだろうか。この、ある意味、ロック世紀の究極とも言える(二つの)
ソウル・フラワーズの実況映像が何よりも物語っているじゃないか。ほとんど何もない場所で、恐ろしく情熱的に歌い演奏するフラワーズ! そのナゼは、彼らが母なる根の場所に帰ってきたからこそ「歌えた」…のだった。
沖縄本島・名護市の外れ・ど田舎のHENOKOは、現代日本のヘソである。HENOKOには戦争と平和、支配と被支配、差別と貧困、そして環境問題…「人と地球」のすべてが勢ぞろいしていながら、見た目は単なるひなびた漁港なのだ。なにか「ある」とすれば浜辺を分断するサビた鉄条網くらいか。ジュゴンなんて見えやしない。だが
ソウル・フラワーの人たちは、そしてこの二日間のイベントに参加したぼくらは、感じていたのだ。本当の歌のありかとは、「ここ」であったのだと。ゼロと無限大が交差する場所、
辺野古に、やはり彼らフラワーズはやってきた。そして吠えた。その大切な記録である。
(追記:たっぷりあるライナーも素晴らしい。特に、文字通り命を賭けて非暴力運動をされておられる平良夏芽師のお言葉は、何度読んでも胸に突き刺さる)
*初出:2008-02-15(同DVD発売会社に提出したチラシ用原稿)
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『ライヴ 辺 野 古/ソウル フラワー ユニオン』