竹田の子守唄ゆ
節美(ふしじゅ)らさ
在所の情(なさき)ん
肝深(ちむぶか)さ
(竹田の子守唄の 節の美しさよ 在所の人たちの情 想いの深さよ/作詞、佐原一哉)
二〇〇六年二月一一日、「
ふしみ人権の集い」でこんな歌詞がステージから飛び出した。歌うは
古謝美佐子。「竹田の子守唄」をウチナー口で解釈しなおしたものだ。古謝さんはしかし、この歌詞の途中で絶句してしまい、詰めかけた観客もスタッフもいったいどうしたのか分からず、会場に緊張が走ったのだ。
美しいメロディに隠された「竹田の歴史」。歌詞にある「節美らさ」は「ふしみ(伏見)」と掛詞にもなっており、沖縄からやってきた古謝さんは、京都の被差別部落に生きてきた人たちの思いを自分自身へ限りなくひきつけようとしたがために、感極まり歌えなくなってしまったのだった。
古謝美佐子は、現代の沖縄(というよりも日本全体)で、最高峰に位置するシンガーである。彼女が醸し出す歌のオーラは、沖縄の、島唄の、といったラベル付けをはるかに超えて、万人の心をえぐる。だがぼくはこれまでステージを何度も見てきたが、彼女が歌えなくなるなんて初めてだ。プロデューサーであり夫でもある佐原一哉も驚いていたが、この日の「
ふしみ人権の集い」では、確かに「沖縄」と「竹田」とが心と心の交わりを持ったように思えた。その証しが、
古謝美佐子という名シンガーの「絶句」だった。
古謝さんは、ただ歌がうまいのではない。彼女の人生は、戦後沖縄そのものであり、島の苦悩も喜びもすべて一身に受け止めて歌ってきたからこその、味わいが深い。
夏川りみ(「涙そうそう」)から
モンゴル800といった有名なロック・バンドにいたるまで、たくさんの「弟子/きょうだい」がいるのも当然のこと。名作
「童神」にしても、これはただの子守唄ではなく、戦争〜基地支配という沖縄の現実に直面しながら生きる歌手から産み出されたがゆえの切実さが背景にある。
生きることを考える。古謝さんは、米軍のトラックに跳ねられた父の死を語り、そのために母は若くして大変な労苦を背負い込んだ…と、歌の合い間合い間に観衆に語りかける。
「
ふしみ人権の集い」では、沖縄の子守唄に始まり、戦中戦後の島唄を紹介し、再び全国の子守唄につなげるという特別な構成だった。差別されても、おとしめられても生き抜いてきた…そこにいつも(沖縄と同じように)歌があったじゃないか。古謝さんは「竹田の子守唄」のふるさとで、そう伝えたかったのかもしれない。
CD『竹田の子守唄 ふるさとからのうたごえ』を作ったばかりの
部落解放同盟改進支部の女性たちとのジョントは、会場が割れんばかりの大拍手(そして感涙)に包まれた。
古謝&佐原さんも凄いが、二人を迎えた「竹田」も凄い。改進支部の女性たちは、古謝さんと一緒に堂々とステージに立ち歌っている。この熱気と力は、いったいどこから生まれるのか? 太鼓集団「怒」の隅野正則代表が、彼女たちの成長ぶりに舌を巻いていたのが印象的だった。
「
ふしみ人権の集い」は、年を重ねるごとに熱くなってゆく。
二月一二日(翌日)、古謝さんと佐原さんは会場近くの蘇生会総合病院へ向かった。介護老人保険施設でのミニ・ライブである(写真)。
古謝さん自身が語っていたが、こういう施設での活動が歌を大きく変えたのだそうだ。高齢者を前にして笑顔の古謝さん。そのふくよかなご面相に「徳」という文字が浮かんで見えた。