文・藤田正
「大航海
レキオス」は、文字通り海の生活と共にあった島の歴史をベースにしている。かつて沖縄には「
大交易時代」と言われる時代があり、ウチナーンチュは東アジアの諸国と多様な交流をしたが、「
レキオス」も、あの大時代を忘れて語ることはできない。
「
大交易時代」とは、Beats21の検索では「琉球が海外と積極的に交易を行っていた、14世紀から16世紀にかけての時代。1372年、察度王(さっと おう)が明へ正式な進貢使を送ってから、中国、朝鮮半島、東南アジアとの関係が深まり、多くの富が琉球へもたらされた。しかしポルトガルやスペインの東進に従い、交易圏が狭まりしだいに先細りとなった。(後略)」と出てくる(オリジナル・ソース:藤田正著『沖縄は歌の島』)。
「
レキオス」の主要な二人の若者、すなわち「航太/アカインコ」「アカハチ」は、この時代に出現したという伝説の人物である。
アカインコ(
赤犬子)は「三線音楽の祖」と言われ、有名な
琉歌にも詠まれている。
うたとぅさんしんぬ んかし はじまいや
いんく にあがりぬ かみぬみさく
(その昔、歌と三線の始まりに、犬子と音東なるものあり、まるで神のような者たち)
新屋敷幸繁(元・沖縄大学学長)は
赤犬子を16世紀初めの人としている。すなわち尚真王(しょうしん おう/在位1477〜1527年)の治世である。尚真は、一般には王朝史で筆頭の名君と称えられ、(オヤケ)アカハチの軍を滅ぼし八重山、宮古地域を制圧し琉球王朝にかしずかせた王でもあった。
尚真の時代に王朝の文化は一気に華やかさを増してゆく。
赤犬子はこの時、3本弦の楽器を肩にかけ村町を訪ね、現世のものとは思えない歌と演奏によって人々を陶然とさせた、という。また
赤犬子は流浪する吟遊詩人のような存在だったようで、先の
琉歌に「音東(にあがり)」なるもう一人の名も見えるように、そこから推察するに、当時の琉球には農民や武士ら定住者と異なる別種の、流浪する芸能集団がいたのではないか。彼らが手にしていたのが、中国大陸から伝来した「サムシエン」の流れを汲む特別な楽器、すなわちのちにいう三線だった。
琉球王朝が最も輝いたという時期に、目を見張る歌舞の才能を持つ人々(それは海外からやってきた者たちの血を引く者たちかも知れない)が、新しい風雅を望む支配者と交わり、三線音楽の原形が作り上げられた。琉球古典音楽における代表的な一曲「作田節(ちくてんぶし)」が、わざわざ「
赤犬子神、音東神両人作」(『
琉歌百控』)とクレジットされているのは、おそらく彼ら流浪の民が、大権威として宮廷から認められたことの証しなのであろう。
(つづく)
(写真は、1965年に発行された真壁型三線の記念切手)