勝新の『座頭市』が、戦後におけるヒューマニズムを土台とした名シリーズであるとするならば、北野のそれは(彼の基本的な作風とも言える)人間の奥底に潜む暴力性、グロテスクなるものを主人公に背負わせた作品である。だからこそ、今回の座頭の市は、髪の毛の色をはじめとして、外見すらも周囲とわざと浮き上がるようにしてデザインされているのだろう。彼は、ある意味「異界から訪れた神」なのかも知れない。
また、座頭市の好敵手となる侍(
浅野忠信)も、好きで用心棒をやっているわけではなかったのに、その血塗られた生活が、彼の心をも蝕んでしまう。それが浅野の、人を斬る時の、薄ら寒い小さな笑みに上手に描き出されている。
つまり、ワケあってしょうがなくて殺した、のではなく、斬りたかった、人をつぶしてやりたかった、という、言葉にならない激情が座頭市の仕込杖を中心に映画を支配していく。
娯楽映画であるはずなのに、なんともいえない緊迫感を持続させるのが、これである。
鈴木慶一の音楽はまず、そんな彼ら「殺人者たち」の感情を、うまく音像として描いた。
そして、リズムだ。北野映画の音楽的パートナーと言えば、これまでは
久石譲が筆頭だったが、久石と鈴木の違いが、リズムにはっきりと出た。ヨーロッパ・クラシック音楽〜現代音楽の久石、ロック〜黒人音楽の鈴木、という二人の出自だけではこれは片付けられないことではあるものの、本作品のもう一つのテーマである「民衆の活気」を音楽として描く、という意味で、鈴木の多様なリズムの使い方は適切であり、映画にさらなぬエネルギーを与えた。
冒頭に出てきた農民の鍬のリズムも、もちろんそうだし、殺人と暴力が積み重ねられてゆく緊迫した状況から、村人たちが解放と再建へ向かって少しづつ前進しようとする時、鈴木慶一が作った「リズム」が湧きあがってくる。大団円となるフィナーレの群舞(タップ・ダンス)も、その流れの中にしっかりとはまっていたのだった。