写真には「琉球民謡 ビクター
マルタカレコード 吹込記念ビクタースタヂオ」と記されている。
マルタカ・レコードのファースト・セッションの時、東京のスタジオで撮影されたのがこの写真だった。高良次郎と船越キヨの間に座る男性は、どうやらスタジオの責任者のようだ。
高良次郎は、
マルタカ・レコードの創立者である。彼はこの時、30歳。沖縄に生まれた戦後最初のレコード会社「丸高」社長の、初々しい姿だ。
沖縄にはもちろん、「マルフク(丸福)」という、今にも続く老舗のレコード会社がある。マルフクは
マルタカよりも早く昭和のアタマの創業だが、当時の本拠は大阪だった。戦後、沖縄はアメリカの支配下となったから、マルフクは新しい人材を探そうにも「外国となった沖縄」」のミュージシャンには手が出ない状態が続いていた。
戦争で壊滅状態に陥った沖縄が、ようやく立ち直ってきた当時、島の歌もまたようやくビジネスになろうとしていた。そこに登場したのが、このレコード会社だったのである。
社長の高良次郎は、最初からレコードの制作をやろと思っていたのではなかった。
次郎の息子である高良繁雄に聞けば、三線のたしなみもない人だったという。というよりも高良次郎は、とても真面目なビジネスマンだった。
ウチナーンチュで「
歌三線」ができないというと、本土の人には奇妙にうつるかもしれないが、それは違う。少し前まで「三線で遊ぶ」ことは、やれ不良だ、いや盗っ人と同じだとさえ言われていたのである。だから高良次郎が沖縄の歌にさして知識がなかったというのも、格別におかしなことではない。