1975年、本土に沖縄音楽を紹介した竹中労によって、
登川誠仁は『美(ちゅ)ら弾き』(ビクター)などが録音される。しかし、本土の知識人に圧倒的な人気を得た
嘉手苅林昌の陰で、
登川誠仁は(本土では)それほど騒がれたわけではなく、この時期以後、先の98年の『Howling Wolf』(prod. by 照屋林助&藤田正)まで、フルアルバムは発売されることはなかった。
登川誠仁の名前が、本土で注目を浴びるのは、1990年代からである。
いわゆる、
りんけんバンドや
ネーネーズらの「沖縄ブーム」が盛り上がる中、
嘉手苅林昌ほかの才人たちが、どれほどの功績を残してきたかが、本土で少しづつ理解されるようになってからだった。そこに、くっきりと浮かび上がったのが
登川誠仁だった。
登川誠仁はすでにこの時、一人のシンガーとしても、琉球民謡協会の会長としても、筆頭の力を持つまでになっており、それは「民謡」とは縁がないとされる、古典芸能にまで及ぶようになっていた。
彼が、古典音楽の中でも最もクラシカルな湛水流の名誉師範と認定されたのも、この流れと無関係ではない。
琉球民謡登川流宗家であることはもちろん、沖縄県無形文化財技能保持者と、
登川誠仁に対して「いかめしい肩書」を加えて行くことは簡単である。
だが、彼の真骨頂は、弟子など「内」には徹底して厳しいが、われわれ「外」に向けては常に「愉快なオジサン」であることだ。