■Beyonce Knowles
黒人コーラス・グループ、
デスティニーズ・チャイルドのリード・ボーカリスト。テキサス州ヒューストンの出身。
小さい頃からメソジスト派の教会でうたっていた彼女は、早くから周囲に才能を認められており、7歳からダンス・レッスンを習い、10歳にはGirls Tymeというコーラス・グループを結成して地元でうたっていた。
このガールズ・タイムがデスティニーズの母体となる。
90年、
デスティニーズ・チャイルドを結成。その時のメンバーは。ビヨンセーとラタビア・ロバーソン(当時9歳)で、二人はビヨンセーの父であるマシュー・ノウルズによってマネージメントされることになった。ちなみにグループの名前は『イザヤ書』にある言葉からとられたものである。
92年、イトコであるケリー・ロウランドが加入して3人組となり、当時の彼女たちはTV番組『スター・トレック』でラップを披露したこともあった。
93年、レトーヤ・ラケットが参加、ヒューストンを中心に徐々に広い評判を得ていくことになる。
97年、コロムビアと契約。映画『メン・イン・ブラック』に使われた「キリング・タイム」でデビュー、続く「ノー・ノー・ノー」などのヒットで急速な人気を獲得していった。
2000年、流行語にもなった「セイ・マイ・ネイム」がR&B、ポップの両チャートでナンバー・ワンとなり、黒人の女性グループとしては筆頭にあったTCLの地位を蹴落とすまでに至る。
しかしこの時期には、すでにメンバー間に不和が露見し、ロバーソンとラケットが、マシュー・ノウルズを中心とする血のつながった者たちと、自分たちの扱いがまるで違うとして、二人はグループを抜け(クビにされ)、その後、裁判にも訴えた。
グループは、不服を申したてた二人と入れ替わりにミッシェル・ウィリアムズとファラー・フランクリンを加えたが、フランクリンはすぐに退団してしまう。こういったトラブルはマスコミの大きな話題となったが、人気は衰えることはなかった。つまり、デスティニーズは、ビヨンセーだけによって回っているグループであることが、この頃から誰の目にも明かなものとなった。
その後、映画『チャーリーズ・エンジェル』のサントラ、「Independent Women, Pt. 1」もヒット。映像と密接に絡めた巨大なプロモーションによって、ビヨンセーを筆頭とするデスティニーズの人気は不動のものとなった。
続く「サバイバー」「ブーティリシャス」「エモーション」 といった、誰にも分かりやすいソウル・ミュージックも人気に。
2002年、ビヨンセーは、日本でも8月24日からの公開が決まった『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』のヒロインとして登場。
[Aug.,2002]